A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。
B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。
C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。
D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。
「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。
(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「《キリストの律法》(マタイ7章12節)」も参照のこと。
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一ヨハネ4章2節とヨハネ1章14節を照合すると「惑わす霊」の特徴は、主イエスが公生活中に仰せになった「主の御言葉」の内容(掟や戒め)に頑として触れようとしない点で、キリスト不在のキリスト教と呼ぶべきものへと信仰を換骨奪胎し、信者を福音書の主の御言葉から遠ざけることこそ目的である。
(注)別エントリー「試論:『言(ことば)である神』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスをヨハネ1章1節は「言(ことば)」つまり《人々の前に御姿を現され御自ら御教えをお話しになる神》と呼ぶ。主イエスに従う人々にとって「神の御言葉」とは、まず何より主イエス御自身の仰せである。聖書やキリスト教に関して話題にしても肝心の主イエスの御教えを避ける人々は眉唾物である。
一ヨハネ4章は、信者を自称しながら世間の事柄ばかり話題にして主イエスの福音の中身に関して頑に触れようとせず沈黙する人々を、「偽預言者」「反キリストの霊」などと呼ぶ。2章19節は「彼らはわたしたちから去って行った」「元々仲間ではなかった」「仲間ならとどまっていた」とその末路を記す。
(注)別エントリー「試論:『愛している者なら』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主の御言葉の権威』を140文字以内で」も参照のこと。
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一コリント3章11節は「既に据えられているイエス・キリストという土台を無視して他の土台を据えることは、誰にもできない」と記す。二テモテ4章3節以下は、やがて人々が「健全な教え」から離れ、自分に都合のいい話だけ聞いて真理(=主イエス)の言葉を無視し、作り話に引かれて行くと警告した。
(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:キリスト抜きのキリスト教を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
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一ヨハネ4章は信用してはならない人の特徴を、キリスト教を語っているようで実は世間に通じる話題だけで、主イエスが実際に教えられた福音書の御言葉を回避していることとした。キリストを棚上げしながら福音書以外の聖書の箇所を引用する目的は、キリストの代わりに自分自身が主役になるためである。
(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神は誰を選ばれるのか』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神」主イエスを表す称号であり主が直接人々にお話しになった御言葉を記したものが福音書である。福音書を顧みず他のものばかりに目を奪われ続けるならばイエス・キリストがわからなくなる。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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箴言28章9節は、主が教えられた御言葉に耳を傾けないなら、いくら主に祈っても、主のおぼしめしには沿わないと教える。それだと、神を一方的に利用しようとしているだけで、全く信仰の名に値しない。主イエス・キリストが《神の御言葉》である以上、御教えを拒むことは神そのものを拒むのに等しい。
(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主イエスを見失うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主に聞き従うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかける。彼らは「滅びをもたらす異端を持ち込み、主を拒む」(1節)、「欲が深く虚言で人々を食い物にする」(3節)、「厚かましく、わがまま」(10節)「昼間から歓楽にふけるのを愉しみとする」(13節)「無意味な大言壮語」(18節)等の特徴を持つ。
(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:神の国の到来と『主の日』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:携挙がない理由を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『携挙』の否定を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:有人気球と『空中』の拡大を140文字以内で」も参照のこと。
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主はルカ6章46節で「あなたたちはわたしのことを『主よ、主よ』と呼んでおきながらどうしてわたしの言うことを行わないのか」と仰せになった。さらに次節以下では「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞きながら聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている」とお教えになった。
【問】なぜ、「キリストの律法」(マタイ7章12節)を世に広く伝える必要がありますか?
【答】人間は自分自身の尊厳が傷付けられたと思い込んだ時、ならば今度は自分が相手の尊厳を傷付けても問題ないはずだという恐ろしい考えが心に生じて来ます。それを予防するためにキリストの律法は不可欠です。
【問】マタイ12章19節(イザヤ42章2節)「彼(=「主の僕」御子イエス)の声を聞く者は大通りにはいない」の意味は?
【答】マタイ7章13節〜14節「滅びに通じる門は広くその道も広々としているが、命に通じる門(詩編118編19節、イザヤ26章2節)はなんと狭くその道も細いことか」。