マルコ2章で、麦畑から穂を摘んで直に麦を口にするほど、弟子たちは空腹だった。ファリサイ派の人々に対して主はサムエル上21章を引用された。パンではなく直に麦を口にするほどの空腹をしのぐことは、井戸に落ちた息子をすぐに引き上げる(ルカ14章5節)ことと同じく、安息日の掟にも優先する。
(注)別エントリー「試論:『安息日と主日との違い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12017
(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888
(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884
【追記】
主が集まった群衆のためにパンを増やす奇跡を行われたことは有名だが、その少し前に弟子たちが極度の空腹のため安息日に麦畑で穂を摘み直に麦を口にし、ファリサイ派の人々と論争になった。なぜ主は奇跡で弟子たちの空腹を満たそうとはされなかったのか? 「現世利益」目的では奇跡を主は行われない。
公生活中、主イエスは安息日に病人を治癒され、ユダヤで批判を受けた。三十数年後ユダヤで反乱が起こり、反乱軍は降伏したローマの守備隊を安息日に都で虐殺した。安息日の虐殺を見て心あるユダヤ人の多くは将来を悲観し、都を離れた。彼らの不吉な予感は数年後、都と神殿の滅亡で現実のものとなった。
(注)別エントリー「試論:『人心荒廃は滅亡の前兆』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『理由のない憎しみ』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「『荒廃をもたらす憎むべきもの』とは何か」も参照のこと。
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