二世紀初めにアンティオキアの聖イグナティウスが記したように初代の信者は、キリストの御復活すなわち「天上の体」(一コリント15章40節)の創造の記念に、週七日の中で祝うべき特別の日を土曜日(ユダヤ教の安息日)から、御復活があった「週の最初の日(安息日の翌日)」日曜日へと置き換えた。
(注)別エントリー「試論:『土曜と日曜』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
「主の変容」の後、主イエスは「人の子が死者の中から復活するまでは今見たことを誰にも話してはならない」と命じられた。使徒たちは「天上の体」(一コリント15章40節)を目撃したのだが、まず主の御復活前後の実体験を経た上で復活の意義を理解しなければ、「天上の体」の理解もないからである。
(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
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「主の変容」とは、一コリント15章でパウロが言及する
「天上の体」(40節)
を主イエスが実際に三人の使徒へお示しになった意義深い出来事で、パウロは「天上の体」を
「朽ちないもの」(42節)
「輝かしいもの」「力強いもの」(43節)
「霊の体」(44節)
「天に属する者」(47節)
等と呼ぶ。
「主の変容」の際、マタイ17章2節は「その顔は太陽のように輝き」と記すが、黙示録1章16節は天上におられるキリストを「顔は照り輝く太陽のようであった」と記し、まさに「主の変容」において三人の使徒は「天上の体」を目撃した。黙示録1章でヨハネは「主の変容」を思い出し主の足許に倒れた。
(注)別エントリー「試論:『火も剣も御言葉の比喩』を140文字以内で」も参照のこと。
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コヘレト12章7節では人間の肉体を「塵」と表現し死によって大地(創世記2章7節、3章19節)へ帰ると記すが、洗礼により「神の子とする霊」(ローマ8章15節)を受けた者の「霊」は対照的に、罪に脆い肉体の重荷から解放され「霊」をくださった「与え主」神の許へ帰るべきだと定められている。
(注)別エントリー「試論:『盗賊さえ楽園に達した』を140文字以内で」も参照のこと。
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一コリント15章でパウロは「地上の体」「天上の体」という表現を用いて、《人間が地上で生活していた際の、死によって朽ちていく肉体》と《その人の霊が神の許に帰還した後で、神によって天上で新しく与えられる、朽ちることのない体》について説明し、後者を「霊の体」(44節)等と表現している。
(注)別エントリー「試論:『イエスは復活と命』を140文字以内で」も参照のこと。
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古代のヘブライ人の世界観に従ってガラテヤ5章は「人間(人間それ自体)」を「肉」、「神〔に由来するもの〕」を「霊」と呼ぶ。ヨハネ3章6節も同様の対比を用い、「霊から生まれた者は霊」の意味を1章12節は「神の御言葉である主イエスは自分を受け入れる人に神の子となる資格を与えた」と記す。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
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古代のイスラエル人にとって「肉」という表現は「人間」を指す場合があった(ヨハネ1章14節等)。マルコ7章20節以下で主イエスが「人から出て来るものこそ人を汚す」と注意を促された諸悪と、ガラテヤ5章19節以下でパウロが「肉の業」と呼んで避けるように促した諸悪が同様なのは当然である。
(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
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ガラテヤ5章は「肉」と「霊」の対立を記すが、ヨハネ1章同様、パウロは古代のヘブライの世界観に基づき、人間そのものを「肉」と表現して「霊」つまり「神の霊」と対比する。近代人は「肉と霊」という表現から「〔人間の〕肉体と〔人間の〕霊魂の対立」をイメージしがちだが、パウロの意図は異なる。
古代のヘブライ人は「肉」を、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけではなく魂も含めた人間の全体。)」を表す言葉として用いていた。創世記6章12節「すべて肉なる者は堕落の道を歩んでいた」(新共同訳)。日本語訳の「肉なる者」に対応する語は、ヘブライ語本文ではただ単に「肉」である。
(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
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