試論:エジプトへの逃避とヨセフを140文字以内で

マタイ2章は夢に現れた天使の指示通りヨセフが聖母子を連れてエジプトに逃げたと記す。イスラエル〜エジプトの道は歴史的にも地理的条件からも極めて治安の悪い地域と見なされてきた。幼子とその母を連れての冬の旅は尋常ではあり得ず、ヨセフの単に堅実なだけでなく冒険をいとわない人柄を示唆する。

(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1613

(注)別エントリー「試論:箴言4章18節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13934

【追記】

マリアの妊娠にヨセフが微塵でも不満を抱き続けていたなら、彼はエジプトに逃げる途中の荒れ野で、「預言者エリヤも任務を捨てて逃げたがそれでも天使はエリヤを励ました。あなたの産んだ子が神の子なら、天使があなたたちを助けてくれるはずだ」と母子を置き去りにしただろうが、彼はそうしなかった。

(注)別エントリー「試論:『義人は意地悪をしない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11980

(注)別エントリー「試論:預言者エリヤと義人ヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11055

(注)別エントリー「試論:エリヤとヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6005

(注)別エントリー「試論:『養父ヨセフこそ理想像』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11873

人類がいかに文明の進歩を誇り、幼子や女性の権利の法的整備を誇ったとしても、実際には幼子や女性を対象とした虐待事件は後を絶たない。神は、「義人」(マタイ1章19節、25章37節)ヨセフの姿を通して、「神の義」(6章33節)とは幼子や女性を尊重し自分を後回しにすることだと教えられた。

(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750

(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5246

モーセに比肩する預言者と見なされたエリヤでさえ、王妃イゼベルに殺されそうになった(列王記上19章)際は、恐れをなして荒れ野に逃げ、自分の任務を放棄しようとしたが、主の養父ヨセフはヘロデ王が幼子を殺そうとした際も、自分の任務を放棄することなく、エジプトへ幼子とその母を連れて逃れた。

(注)別エントリー「試論:『マリアとヨセフは別格』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5928

(注)別エントリー「試論:モーセとエリヤを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5656

福音書の時代にエルサレムからエジプトに逃避する場合、途中かつてのペリシテの町ガザがある。エルサレムからガザへの道を使徒言行録8章26節は「寂しい道」と記す。イスラエル人にとっては実際のところガザからエジプトまでの道の方が、より長く、より寂しく、より危険で困難が多い道のりではある。