試論:「ともし火を世に輝かす」を140文字以内で

主イエスはヨハネ8章12節で、「わたしは世の光」と仰せになり、山上の説教を聞きに集まった人々に対し「あなたたちは世の光」(マタイ5章14節)と呼ばれた。主イエスにとって御自分の御言葉を行おうと積極的に反応する「聞く耳のある者」(マルコ4章23節)は「ともし火」(同21節)である。

(注)別エントリー「試論:『光を輝かせなさい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13889

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節『言』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13546

(注)別エントリー「試論:『何を聞いているかに〜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14017

【追記】

主イエスはマルコ4章24節で「何を聞いているのかに注意を払いなさい」と仰せになった。この仰せは、マタイ13章14節「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず〜」に対応するものである。箴言19章27節「教えに耳を傾けるのを怠ってはならず、神の御言葉に無知であり続けてはならない」。

(注)別エントリー「試論:『自分の秤』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13997

マタイ5章で主は、「あなたがたは世の光」(14節)、「あなたがたの光を、人々の前に輝かせなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(16節)と仰せになり、行いを伴わぬ信仰など役に立たない(ヤコブ2章14節)ことをお話しになった。

(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5360

(注)別エントリー「試論:『地の塩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5586

主はマタイ5章14節で「あなたがたは世の光」ヨハネ8章12節で「わたしは世の光」「わたしに従う者は暗闇の中を歩まず命の光を持つ」と仰せになった。同1章4節は「御言葉のうちに命があり、命は人間を照らす光」と記す。イザヤ58章6節以下では隣人に心を配り助けを惜しまない人々に光が伴う。

(注)別エントリー「試論:『世の光と一タラントン』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11353

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章4節『命の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7297

(注)別エントリー「試論:『霊魂を注ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13590