古代のイスラエル人は、「困っている人に心を配る」(イザヤ58章10節)ことを表現する際には「霊魂を注ぐ」という言い回しを用いた。従ってルカ11章41節「器(=人間)の中にある物(=霊魂)を施せ」の意味は「揚げ足取りをいい加減に止めて、隣人に心を配ることだけを心掛けなさい」である。
(注)別エントリー「試論:『土の器』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6902
(注)別エントリー「『土の器』(つちのうつは)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14324
【追記】
ルカ11章41節「器の中にある物を施せ」の「器」とは「土の器」「陶器」の比喩と同様、人間を指す。「器の中にある物」は人間に吹き込まれた「命の息」(創世記2章7節)つまり「霊魂」を意味する。イザヤ58章10節のヘブライ語原文「霊魂を注ぐ」は、「心を配る」(新共同訳)ことを意味する。
(注)別エントリー「試論:『器の中にある物を施せ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11264
(注)別エントリー「試論:詩編2編のメシアと鉄の杖を140文字以内で」も参照のこと。
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箴言15章4節「赦しを与える言葉は命の木」にある通り旧約の民は、他者に幸福や安堵を与える事柄を「命」と表現し、主なる神から命の息を吹き込まれた人間は他者に幸福や安堵を与えることができる、という信念を持っていた。故に主はルカ11章41節で他者に幸福や安堵だけを与えるよう命じられた。
(注)別エントリー「試論:『主にとって赦しも癒し』を140文字以内で」も参照のこと。
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「道」とは全ての人が生きる上で辿るべき道筋(道理・規範)でイエスがその模範であること、「真理」とは人が信仰・礼拝すべき三位一体の唯一の神を指し御父・御子・聖霊の間に矛盾がないこと、「命」とは幸福・安堵・充足等の人を生かすものの全てで人間にそれを授ける源は唯一の神ということを指す。
(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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