主イエスは、マタイ5章14節で「あなたたちは世の光」16節で「光を輝かせなさい」と仰せになった。「光」はイザヤ58章8節と10節の通り神の御言葉に従う憐れみの業を象徴している。ただし主イエスはマタイ6章で、その業を行う際にはこれ見よがしな態度で見せびらかさないよう厳に戒められた。
(注)別エントリー「『世の光』どういうこと?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13685
(注)別エントリー「試論:『霊魂を注ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13590
【追記】
主イエスはマタイ5章16節で「あなたたちの光を人々の前で輝かせなさい」と確かに教えられたし、「光」とは「神の御言葉」(ヨハネ1章)の比喩であり、神に忠実な人に伴うものであるが、神がお喜びになる流儀は憐れみの業を行う際にも人目に着かないことであると、マタイ6章では念を押されている。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844
(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章4節『命の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7297
主イエスはマタイ6章で、施し・祈り・断食は人目に付かないようにと命じられ、天の御父である神は全て御存知だと仰せになった。箴言15章3節「どこでも主の御目は注がれ善人も悪人も見ておられる」詩編90編8節「〔主よ、〕あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれる」。
(注)別エントリー「マタイ6章『隠れた祈り』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14717
(注)別エントリー「イザヤ58章『真の断食』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14709
主イエスがファリサイ派の人に対し使われた表現「偽善者」の、原文におけるギリシア語の本来の意味は、「演技をする人」「見せかけの人」等だった。「皇帝のコイン」に関する罠を隠した質問の時のように、ファリサイ派の人は主イエスに対し芝居がかった追従を大げさに口にしながら陥れようとしていた。