主イエスは御自分の弟子たちに断食をさせない理由を、マタイ9章15節「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」、マルコ2章19節「花婿が一緒にいるのに婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいる限り断食はできない」と仰せになった。花婿とはもちろん主御自身である。
(注)別エントリー「試論;真の『花婿』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13774
(注)別エントリー「イザヤ58章『真の断食』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14709
(注)別エントリー「試論;『花婿と大淫婦』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『新しい酒と新しい革袋』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
イザヤ62章5節では、神と神の民との関係を、「花婿」と「花嫁」との関係に喩える。「婚礼」とは、神の民が神に受け入れられる瞬間の喩えである。しかし主イエスは弟子たちを「婚礼の客」と呼ばれた。弟子たちは「招かれた」人々だからであるが、最終的に「選ばれた」存在だとはまだ確定していない。
(注)別エントリー「試論;『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『選ばれる瞬間』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8020
(注)別エントリー「試論:『花婿と花嫁』を140文字以内で」も参照のこと。
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