試論:「断食より喜ばれるもの」を140文字以内で

マタイ9章14節ではヨハネの弟子たちが主イエスに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのかと問う。その前の13節で主は「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とホセア6章6節を引用されて相手に答えられた。その節は「神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない」と続く。

(注)別エントリー「試論;『断食させない理由』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「イザヤ58章『真の断食』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

主はホセア6章6節「わたしが喜ぶのは憐れみであって『いけにえ』ではない」をマタイ福音書で二度(9章13節、12章7節)引用され、隣人への敬意を欠いた者による尊敬など、神には受け入れられぬと教えられた。22章で律法の最も重要な掟の第一を神への愛、第二を隣人愛とされたことと符合する。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
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箴言17章5節の後半は「他人の不幸を喜ぶ人は罰を免れない」等と訳される。古代のギリシア語訳はさらに「同情する人は憐れみを受ける」と続け、これはマタイ5章7節と同じ趣旨であり聖書の「憐れみ」とは他人の不幸を喜んだり笑ったり嘲ったり蔑んだりせず、ただ同情を寄せることであると説明する。

(注)別エントリー「試論:マタイ5章7節を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
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主はマタイ福音書で「わたしが求めるのは憐れみであり犠牲(いけにえ)ではない」と繰り返され5章7節では憐れみ深い人は神の憐れみを受けると説かれた。6章14節以下では、他人を赦す人を神もお赦しになられるが、他人を赦そうとしない人を神もお赦しにならないと教えられた(18章21節以下)。

ある人が他人に憐れみの心を起こして積極果敢な行動に移した例として四福音書で唯一といえる話がある。ルカ10章の善きサマリア人の話で、主の「誰が隣人か」との問いに「憐れみの心を起こした人です」と律法の専門家は答えた。憐れみが「上から目線」とはおのずと別問題であることを示す例と言える。

(注)別エントリー「試論:『完全になる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
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(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
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主はマタイ5章7節で「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」と仰せになられ、これに関して主は25章34節から40節でその終末的な意味合いを御説明されたが、同37節の「正しい人たち」で用いられた原文のギリシア語ディカイオスは、1章19節でヨセフについても用いられている。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの人柄を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:エリヤとヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」はヨハネ13章「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」同14章「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、御父とわたしはその人のところに行って一緒に住む」等と同じ道理である。

箴言11章28節「憐れみの道にこそ命がある。この道を行く人に死はない」ルカ6章35節以下「敵に親切にし、善を行い、何も当てにせず貸しなさい。そうすれば、あなたたちはいと高き方であられる天の御父の子となり、大きな報いを受ける。あなたたちも天の御父のように憐れみ深い者になりなさい」。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ25章34節「御父に祝福された人々よ、天地創造の時からあなたたちのために準備されていた王国を受け継ぎなさい」黙示録21章7節「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ」ヘブライ6章12節「怠け者とならず信仰と忍耐によって、約束されたものを受け継ぐ人々に倣う者となってほしい」。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命を受け継ぐ』?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『受け継ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
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神の霊つまり聖霊が人間に賜るものをガラテヤ5章は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制と説く。主はマタイ6章33節で「神の義」を求めよと仰せになり、同22章でそれを「礼服」にたとえられる。コロサイ3章では、着るべきものとは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と説く。