試論:「隣人を赦す」を140文字以内で

最後の晩餐の際に主は、御自分の《愛の掟》においては隣人愛の実践をもって御自分への愛の実践とみなすと宣言された(ヨハネ14章21節等)。最後の審判では各自の行いに応じて裁かれる(黙示録20章13節、マタイ25章45節)ため、神からの赦しを得るには隣人を赦す以外ない(同6章12節)。

【追記】

黙示録20章12節以下には、マタイ25章31節以下と同様に、「最後の審判」に関する記述が登場するが、そこでは全ての死者たちが各自の行いに応じて裁かれることが書かれており、「行いを伴わないならば、信仰はそれだけでは死んだものです」というヤコブ2章17節の記述とは完全に一致している。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5360

一ペトロ4章8節は、箴言10章12節を踏まえて「愛は罪を覆う」と説く。この意味について、主イエスはルカ16章「不正な管理人のたとえ」で、ある人が常日頃から周囲に対して情け深く接するならば、神は必ずその人の以前の過ちに対しても情け深く接して下さる(マタイ6章14節)と御説明された。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

出エジプト記34章で主の栄光がモーセに現わされた際、御自分が優しさと厳しさを兼ね備えた神であると主はモーセに明らかにされた。ダビデは詩編18編21(20)節以下で、主は優しい人には優しく厳しい人には厳しいと歌った。その人が隣人に敬意を示さない限り、主はその人の信仰を認められない。

(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8034