マタイ福音書は、アダムとエバの次男アベル(23章35節)と、主の養父ヨセフを、ともに「ディカイオス(正しい人、義人)」というギリシア語で呼ぶ。二人にはもう一つ共通点がある。聖書は二人が発した言葉を収録していない。アベルを殺したカインについては、その身勝手な言い分を多数、収録する。
【追記】
カインは怒りに任せ弟アベルを殺害した後、主の問いに「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と白(しら)を切った。その後「わたしの罪は重過ぎて負い切れません」と口にしたが、この言葉は、決して反省の弁ではなく、主からの庇護(創世記4章15節「しるし」)を引き出すための口実であった。
創世記4章は、弟を殺しておきながら、「あなたが御顔を隠されたら」(14節)つまり神の庇護が失われれば自分は誰かに殺されてしまうと神に頼み込むカインの姿が描かれる。「わたしは弟の番人でしょうか」(9節)と憎まれ口を神に叩いておいてこの身勝手振りで、彼は自分自身にしか興味がなかった。
(注)別エントリー「試論:『悔い改め』とは無縁の人を140文字以内で」も参照のこと。
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カインはアベルと違って献げ物となる作物を育てる際、手間暇をかけようとせず、ろくに手入れもせず、ただ自然に育ったがままの状態のものを献げた。それでいて神に目を留められなかったことで激怒し、そうなった理由を反省せず弟の意見を参考にしようとせず両親にも相談せず、神に質問すらしなかった。
「神は高慢な者を敵とする」と聖書は随所(箴言3章34節等)で教える。ただし高慢な人の破滅を準備するのは、実は高慢な人自身である。高慢な人は周囲を侮り、眼中にないかのように配慮もなく、高慢な人の態度を嫌った周囲の人々は高慢な人が窮地に陥っても援助や協力の手を差し延べようとはしない。
(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
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箴言28章14節「主を畏れ続ける人は幸いであるが、心のかたくなな人は、好ましからざる状況に陥る」同8章13節「主を畏れることとは、悪を憎むことである。高慢、驕り、悪の道、暴言を吐く口を、わたし(知恵)は憎む」同12節「わたしは知恵。熟慮と共に住まい、知識と慎重さを兼ね備える」。
【問】弟を殺したカインには違う道はなかったのですか?【答】なぜ弟の献げ物には神は目を留められたのに自分の献げ物にはそうされなかったのか、まず彼は弟と話し合うべきでした。間違った自尊心のために彼はそうせず、神から語り掛けられた際に神へ理由を直接質問することさえも彼はしませんでした。
【問】神はえこひいきされましたか?【答】兄は適当な気持ちで自分の産物の中からありきたりのものを神に献げましたが、弟は真心を込めて選りすぐりのものを献げました。詩編18編の通り、神は無垢な者には無垢に向き合われ心の曲がった者には背を向けられますが、兄は弟だけではなく神も恨みました。
神からアベルの不在について質問を受けた際、最初カインは神に対し白(しら)を切った。カインはそれだけでなく「わたしは弟の番人でしょうか」と憎まれ口を続け、神に対する高慢や敵意すら隠さなかった。もし神を殺せるならそうしていたのではないかと思える毒々しさがカインの言葉には込もっている。
旧約聖書第二正典の知恵の書の10章では、人類の始祖アダムが一度は過ちを犯したが、そこから立ち直って救われ、嫉妬のためにカインは神から遠ざかり、弟を殺した後も不信仰のまま死に滅び去り、カインの不信仰が人類に蔓延した結果として洪水に至った世界から神に導かれノアが箱舟で救われたと記す。
(注)別エントリー「試論:神の子と人の娘の結婚??を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを【再投稿】」も参照のこと。
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主の養父をマタイ1章19節はディカイオスと表現するが、古代ギリシア語訳ハバクク2章4節はディカイオスを高慢な者と対置する。主が「人の子は仕えるために来た」(マルコ10章45節)と仰せになり、聖母が「主のはしため」(ルカ1章48節)を自称する以上、ヨセフのへりくだりは必然と言える。
(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
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使徒たちは箴言3章34節を引用し「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みを与えられる」(一ペトロ5章5節、ヤコブ4章6節)と説いた。主イエスもマタイ23章12節で「高慢な者は誰でも低くされ、へりくだる者は誰もが高くされる」と、御自分の弟子たちも含めて、全ての人々に仰せになった。
(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
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イザヤ10章12節の「主はアッシリア王の驕った心の結ぶ実と高ぶる目の輝きを罰せられる」が示す通りヘブライ人は、「人間の心の状態は眼差し・目付きなどに反映されるため目を見ればその人の内面とりわけ高慢心が明らかになる」と考えており、マタイ6章「体のともし火は目」はこれを踏まえている。
主は「体のともし火は目」(ルカ11章34節以下、マタイ6章22節以下)と仰せになったが、当然、「あなたの内面は、まなざし・目つきで明らかにされる」という意味でも上記の表現を用いられ、箴言21章4節は《高慢なまなざしは神に逆らう者の傲慢な心を明らかにするが、傲慢は罪である》と説く。
詩編1編1節は幸いな者として「神の逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず」と歌い、「神は高慢な者を敵とされ、へりくだる者に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、ヤコブ4章6節、一ペトロ5章5節)と同様に、高慢心は信仰と相容れないことを説く。