試論:「ラッパを吹き鳴らす」?を140文字以内で

主イエスはマタイ6章2節で「憐れみの業を行う際に、自分の前でラッパを吹き鳴らすな」と仰せになった。聖書で「ラッパ」は、しばしば神の威厳に満ちた御声による仰せの比喩だが、主はここで、神のお告げのような仰々しい物言いで自己宣伝する行為や相手に対する恩着せがましい態度を戒めておられる。

【追記】

黙示録1章10節や4章2節は、ラッパのように響く大声という表現を用いる。1章ではヨハネが声の主(ぬし)を確かめようと振り向き「顔は強く照り輝く太陽のようであった」(16節)ことで「主の変容」を思い出し、主の「天上の体」を目撃する。ラッパは神の威厳に満ちた力強い御声のたとえである。

(注)別エントリー「試論:『主の変容』と御復活を140文字以内で」も参照のこと。
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古代のギリシア語旧約聖書は「角笛」(新共同訳)と訳されるヘブライ語に対して、新約聖書本文中で「ラッパ」(新共同訳)と訳されるギリシア語を、当てている。ヘブライ12章19節で言及される「ラッパ」はシナイ山の出来事と関連し、出エジプト19章や20章で言及される「角笛」に対応している。

主イエスはマタイ6章17節で「断食の際は頭に油を付け、顔を洗う」よう教えられた。コヘレト9章8節は「どんな時も純白の衣を着て、頭に香油を絶やすな」と日々を爽やかな心持ちで過ごすことを勧めており、主イエスが「頭に油を付け」と勧められる理由も結局は万事を自然な態度でという点に尽きる。

主イエスは、マタイ5章14節で「あなたたちは世の光」16節で「光を輝かせなさい」と仰せになった。「光」はイザヤ58章8節と10節の通り神の御言葉に従う憐れみの業を象徴している。ただし主イエスはマタイ6章で、その業を行う際にはこれ見よがしな態度で見せびらかさないよう厳に戒められた。

主はマタイ5章14節で「あなたがたは世の光」ヨハネ8章12節で「わたしは世の光」「わたしに従う者は暗闇の中を歩まず命の光を持つ」と仰せになった。同1章4節は「御言葉のうちに命があり、命は人間を照らす光」と記す。イザヤ58章6節以下では隣人に心を配り助けを惜しまない人に、光が伴う。

(注)別エントリー「試論:『世の光と一タラントン』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章4節『命の光』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスの「善きサマリア人のたとえ」で、サマリア人は「傷に油とぶどう酒を注ぎ包帯をして、宿屋に連れて行って介抱した」(ルカ10章34節)。さらに、その後のことを宿屋の主人に依頼しておくのも忘れなかった。自分の手に負える範囲を超える際には他人の手を借りる方が良い場合も当然あり得る。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
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古代のイスラエル人は、「困っている人に心を配る」(イザヤ58章10節)ことを表現する際には「霊魂を注ぐ」という言い回しを用いた。従ってルカ11章41節「器(=人間)の中にある物(=霊魂)を施せ」の意味は《揚げ足取りをいい加減に止めて、隣人に心を配ることだけを心掛けなさい》である。

(注)別エントリー「試論:『土の器』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「『土の器』(つちのうつは)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14324