試論:「義の道」を140文字以内で

【問】主イエスのマタイ21章32節の仰せ「義の道」って何?
【答】ヨハネ14章6節の仰せ「わたしは道」を踏まえれば、主は「義の道」という表現で御自身を暗示されました。「徴税人や娼婦たちは彼を信じた」の「信じた」とは信仰の対象としての意味で、彼らの信仰の対象は洗礼者でなく救い主です。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

二ペトロ2章21節「『義の道」(=主イエス・キリスト)を知りながら自分たちに与えられた聖なる掟(ヨハネ13章34節、マタイ7章12節)から離れ去るより、『義の道』を知らなかった方が、彼らのためには良かった」箴言8章20節「わたし(=知恵)が歩んで行くのは、憐れみの道と、義の道」。

主イエスはマタイ11章で洗礼者ヨハネを回顧された後、19節で御自分を「知恵」と称された。3章16節の洗礼者によるヨルダン川での洗礼の際、神の霊が主イエスの上に降(くだ)って来たが、イザヤ11章2節の通り神の霊の賜物の筆頭は知恵だからであり、『箴言』は全体としてこのことを裏付ける。

(注)別エントリー「試論:『知恵』としての主イエスを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを識別する」も参照のこと。
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主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道である」と仰せになったが、この場合の「道」とは、全ての人が生きて行く上で辿るべき道筋(道理・規範)を指し、御自身がその模範であることをも意味する。ホセア14章10(9)節「主の道は正しい。神に従う人はその道を歩み、神に逆らう人はつまずく」。

箴言10章29節は「主の道は義人が頼みとするところであり悪人を滅亡へと導く」と説く。この場合の「道」とは、《主が掟や御教えによってお示しになっている誰もがそこを通って進んで行くべき道筋》つまり「主の規範・指針」を意味し、悪人の「滅亡」とは「永遠の罰」(マタイ25章46節)を指す。

(注)別エントリー「試論:『命に通じる門』を140文字以内で」も参照のこと。
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キリスト教の信仰に関して使徒言行録は、度々これを「道」と表現し(9章2節、18章25節、同26節、19章9節、同23節、22章4節、24章14節、同22節)、ヨハネ14章6節で主イエス御自身も御自分を「道」と表現され、御自分を通らなければ天の御父のもとには行けないと仰せになった。

日本語でも「人としての道から外れる」などと表現するように、主イエスが「わたしは道」と仰せになる際の「道」とは、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋、つまり御父である神の御前における、人間としてのあるべき姿(人間としてのあり方や生き方の規範・模範)という意味合いである。

(注)別エントリー「試論:『キリスト教の信仰は道』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしは道』を140文字以内で」も参照のこと。
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