【問】主イエスにマタイ7章23節で「わたしから離れよ、不法の者たち。あなたたちのことなど全く知らない」と宣告されるのはどんな人?
【答】この場合「不法」とは、12節のキリストの律法「他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたの方から他の人にしなさい」を黙殺することを指します。
(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291
(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541
【追記】
A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。
B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。
C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。
D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。
「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。
主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。
レビ19章18節は有名な隣人愛の掟を教えるが、その対極の行為として17節は兄弟を心の中で憎むことを禁じる。ゼカリヤ7章10節は互いに災いを心の中で企むこと、8章17節は互いに心の中で悪を企むことを禁じ、相手の困った顔・悲しむ顔・苦しむ顔を見たいという悪意を抱いてはならぬと戒める。
ローマ13章10節でパウロは「愛とは隣人に対して悪事を行わないことです」と断言している。これを踏まえるなら、隣人に対して悪事を行おうと企むことこそが愛の反対に該当する行為ということになる。同9節は「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな(他人の物の横取りを企むな)」等を列挙している。
ローマ3章28節では「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」と記すが、30節では「神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とされ、割礼のない者をも信仰のゆえに義とされる」と説く。つまり《人が義とされるのは割礼〔の有無〕によるのではなく、信仰による》の意味合いである。
ローマ3章でパウロは、「信仰」「律法」という表現で実際は、
《イエス・キリストを信仰する人々にとっての新しい掟=愛の掟》と、
《イエスを認めぬ人々の古い掟=律法の掟》を比較した。
人間を「義」とするのは《律法の掟》の実行ではなく、信仰に基づく《愛の掟》の実践(ガラテヤ5章6節)による。
(注)別エントリー「試論:『新しい掟』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『永遠の命を得るには?』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11171
マタイ7章23節では主なる神が「不法を働く者たちよ、おまえたちなど知らない」と仰せになると記す。全知全能の神が彼らを知らぬはずはないが、神は知らないとあえて仰せになる。この場合「知らない」は拒絶の意味だが、不法を働く者こそが御教えを「知らない(わからない)」と拒絶した結果である。
(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
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