「献金泥棒」の最期

ヨハネ12章6節「彼(ユダ)は泥棒で、預かった金(かね)入れの中身をごまかしていた」ルカ16章13節「あなたたちは神と富の両方に仕えることはできない」同22章3節「十二人の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中にサタンが入った」。同5節「彼らは喜びユダに金を与えることに決めた」。

主イエスはマタイ7章22節以下で、預言や悪霊を追い出すことや奇跡よりも、悪を行わないことこそが重要で御自分の弟子である証明だと教えられた。イスカリオテのユダは汚れた霊を追い出す権能と病気を癒す力を使徒として与えられたが(マタイ10章)、献金を盗んでいたためサタンが彼の中に入った。

レビ19章18節は隣人愛の掟を記すが、15節は貧者救済の理由であろうと判断を惑わされてはならないと説く。ヨハネ12章でイスカリオテのユダが貧者救済を理由にベタニアのマリアを攻撃した際、主イエスはユダの言葉が貧者救済を口実にした単なる言い掛かりに過ぎないと見抜かれ、女性を擁護した。

ヨハネ12章の冒頭で、ベタニアのマリアの行いを目にしたイスカリオテのユダは、相手の「落ち度」(実際は落ち度でも何でもなかったがユダは勝手にそう思い込み調子に乗った)を見つけて鬼の首でも取ったかの如く、勢いづいた。同6章64節は主イエスは最初から誰が裏切り者か知っておられたと記す。

パウロは一コリント13章で愛こそ諸徳の中で最上のものと説くが、ローマ13章10節では愛は隣人に悪を行わないと説く。これは主イエスがマタイ7章22節以下で仰せになった内容(たとえ預言や奇跡や悪霊を追い出すこと等を行おうとも、悪を行わないことを疎かにするなら無意味)と完全に合致する。

主イエスは、マルコ12章とルカ21章の有名な「貧しいやもめの献金」の箇所で、「他のどんな裕福な人々よりも、彼女はたくさん献金した」と仰せになり、献金の多い少ないを信仰心の尺度と見なすという価値観をここで明確に否定された。献金で信仰心を評価する行為はキリスト教的ではない発想である。

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかける。彼らは「滅びをもたらす異端を持ち込み、主を拒む」(1節)、「欲が深く虚言で人々を食い物にする」(3節)、「厚かましく、わがまま」(10節)「昼間から歓楽にふけるのを愉しみとする」(13節)「無意味な大言壮語」(18節)等の特徴を持つ。

【問】イスカリオテのユダは主を敵に引き渡しましたが、彼に罪の自覚はありましたか?
【答】マタイ27章3節〜4節「ユダはイエスの死刑判決を知り『わたしは罪のない人の血を売り渡し罪を犯した』と言った」申命記27章25節「賄賂を取って人を撃ち殺し、罪のない人の血を流させる者は呪われる」。

主イエスはマタイ10章で十二人をお選びになり、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒す権能」を授けられた。マルコ3章14節は「十二人」選抜の目的を御自分の傍に置くためと記す。その一人は泥棒(ヨハネ12章6節)となり、銀貨三十枚(マタイ26章15節)で、自分の師を売り渡した。