真理(アレテイア)

ヨハネ福音書は「信仰」を表現する際、他の福音書が用いるピスティスという語を用いず代わりにアレテイア(真理、まこと)という語を多用する。ヨハネにとって信仰とは、人の真心に対し真心で応じられる神なる主に向かって嘘偽りや裏表のない態度で接することに他ならず、これは当時の共通認識だった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
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詩編12(11)編においてダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(12編2節、新共同訳)と表す。ここで「信仰」と訳されるヘブライ語を、古代のギリシア語訳聖書はアレテイア(真理、まこと)と訳す。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
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古代よりヨハネ福音書には「信仰」を意味するギリシア語が登場しないことが知られていた。その替わりヨハネ福音書は「真理」を意味する語アレテイア(まこと=真、実、信、誠)を多用する。ヨハネ7章28節「わたしを遣わされた方は『真理である方(=御父)』だが、あなたたちはその方を知らない」。

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
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ヨハネ18章38節「真理(アレテイア)とは何か」の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」と記す。一ヨハネ5章6節と20節は、「真理」の名に該当するのは御父と御子と聖霊であると説く。ヨハネ10章30節「一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心」「思い」等々と説明する。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
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一ヨハネ5章は20節で「神の御子が来られ、私たちに真理である方を知る力を与えられました。私たちは真理である方の内に、またその御子イエス・キリストの内にいるのです」と記し、「この方こそ真理である神、永遠の命」と続け、御父と御子と聖霊(6節)の御三方を「真理」と呼び、唯一の神とする。

(注)別エントリー「試論:『御子に全て委ねられた』を140文字以内で」も参照のこと。
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幼子イエスに関してルカ2章40節は「たくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」と記し、ヨハネ1章14節は「その栄光は御父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた」と記す。他の福音書が「知恵」や「信仰」と表現する際もヨハネ福音書は「真理」という語を当てている。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:真理(まこと)の反対は?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
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古代よりヨハネ福音書には「信仰」を意味するギリシア語が登場しないことが知られていた。その替わりヨハネ福音書は「真理」を意味するギリシア語アレテイアを多用する。主イエスはピラトの問いに対し御自分のことを王だとも神だともお答えにならず、ただ「真理」すなわち信頼すべき者だと宣言された。

古代のギリシア語訳イザヤ書59章14節は「真理(まこと、アレテイア)は街頭(広場、巷)でよろめく」15節は「真理は失われ、それは主の御目に悪と映った」と記す。この預言は「わたしは真理」(ヨハネ14章6節)と自称される主イエスの、御受難とキレネのシモンのエピソードにおいて実現した。

(注)別エントリー「試論:『真理は街頭でよろめく』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはヨハネ14章6節で「真理(アレテイア)」と自称されたが、ギリシア語訳のエレミヤ9章4節は「人は隣人を惑わし、『まこと(アレテイア)』を語らない」であり、エレミヤ9章で「まこと」に対置されているのは姦淫する者・裏切る者・偽り・悪・中傷・惑わし・悪事・欺き・殺し等々である。

詩編43編3節は「あなたの光とまこと(真理)を遣わしてください」と歌う。ヨハネ1章4節は「神の御言葉(=主イエス)の中に命があり、命は人間を照らす光」と記す。同14章6節で主は「わたしは道・真理・命」と仰せになり、まさに御自分こそが詩編の「光とまこと」に他ならないと、宣言された。

(注)別エントリー「試論:『わたしは世の光である』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:あなたがたは世の光って?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ2章22節は、主が復活された際、過去の主の仰せを思い出した弟子たちは〔旧約〕聖書と主の仰せとを信じたと記す。この「信じた」は、「納得した」「了解した」「腑に落ちた」「合点がいった」等の意味合いである。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる者は、幸い」も同じことである。

ヨハネ福音書は「永遠の命」「信じる」を多用する。ただし「何をすれば永遠の命を得られるか」の具体例はマタイ25章「最後の審判」とルカ10章「善きサマリア人の話」の箇所にあり、ルカ10章27節で主イエスは、「信じる」こととは「心・精神・力・思いを尽くし愛する」ことだとお教えになった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
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