古代のギリシア語訳イザヤ書59章14節は「真理(まこと、アレテイア)は街頭(広場、巷)でよろめく」15節は「真理は失われ、それは主の御目に悪と映った」と記す。この預言は「わたしは真理」(ヨハネ14章6節)と自称される主イエスの、御受難とキレネのシモンのエピソードにおいて実現した。
(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:真理(まこと)の反対は?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。
(注)別エントリー「試論:キリスト教と旧約聖書を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
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詩編43編3節は「あなたの光とまこと(真理)を遣わしてください」と歌う。ヨハネ1章4節は「神の御言葉(=主イエス)の中に命があり、命は人間を照らす光」と記す。同14章6節で主は「わたしは道・真理・命」と仰せになり、まさに御自分こそが詩編の「光とまこと」に他ならないと、宣言された。
(注)別エントリー「試論:『わたしは世の光である』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:あなたがたは世の光って?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはヨハネ14章6節で「真理(アレテイア)」と自称されたが、ギリシア語訳のエレミヤ9章4節は「人は隣人を惑わし、『まこと(アレテイア)』を語らない」であり、エレミヤ9章で「まこと」に対置されているのは姦淫する者・裏切る者・偽り・悪・中傷・惑わし・悪事・欺き・殺し等々である。
ルカ24章のエマオでの御出現において主は、旧約聖書とは御自分について証しするものであり、実際その詳細について《全体》の説明を始めると、何時間あっても語り尽くせないことをお示しになった(27節)。主は以前にもユダヤの人々に対して同じ事柄をお話しになられていた(ヨハネ5章39節等)。
(注)別エントリー「試論:モーセが預言したキリストを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ5章46節を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:旧約聖書を調べる意味を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:旧約聖書から何を学ぶの?を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはヨハネ5章39節で「あなた方は〔旧約〕聖書中に永遠の命が存在すると考え〔旧約〕聖書を研究するが〔旧約〕聖書はわたしに関してあかししている」と仰せになり、御自分と無関係の目的で〔旧約〕聖書を研究したとしても本当に重要な真理には全く到達することができないと、お教えになった。
(注)別エントリー「試論:聖書研究の目的を140文字以内で」も参照のこと。
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旧約聖書の預言は第一義的に主イエス・キリストの到来及びその前後までの歴史的出来事をあかしするためのものであり、キリスト到来から約二千年後に生きる現代人が国際情勢を読み解くためのものではなく、国際情勢分析など本来の意義とは無関係の完全な逸脱行為であり、真理には絶対にたどり着けない。
(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
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