試論:三位一体の「一体」とは?を140文字以内で

【問】三位一体の「一体」とは、何を意味しますか?
【答】「思いも心も一つ」(使徒言行録4章32節。ヨハネ17章22節)のことで、御父と御子イエスの間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを意味します。聖霊の啓示も、イエスが実際に仰せになった福音書の御言葉と矛盾することはありません。

(注)別エントリー「試論:三位一体の『一体』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖霊降臨とは無関係の出来事を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

一ヨハネ5章20節は神の御子が来られて真理である方(御父である神)を知る力を与えられたとして信者は御父と御子の内にいると記し、御父と御子イエスを真理である神また永遠の命と説く。同6節は聖霊をも真理と記し5章全体として御父と御子と聖霊の御三方を真理と呼んでおり、ただ一つの神とする。

「真理(ギリシア語本文でアレテイア)とは何か」(ヨハネ18章38節)の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」ことがアレテイアとし、主はこれを「適切な答え」とされた(34節)。ヨハネ14章6節「わたしこそが道、真理、命」10章30節「わたしと父とは唯一のものである」。

【問】主イエスはヨハネ16章で「真理の霊」聖霊に関して、「その方はわたしに栄光を与える」(14節)と説明されます。この意味は?
【答】一ヨハネ4章では、主イエスの福音書の仰せに頑なに触れようとしない人々を「反キリストの霊」「人を惑わす霊」と呼び、「真理の霊」とは無関係としています。

【問】主イエスが聖霊に関して教えられた事柄で最重要なものは何?
【答】御自分がお教えになった内容を思い起こさせるために聖霊は来られるのであって、御自分と無関係にではない、ということで、もし「聖霊が我々に直接教える以上、福音書は必要ない」と誰かが言うなら、それは「人を惑わす霊」です。

【問】どう考えても聖霊とは無関係の徴候だと確実に言えるものは、何ですか?
【答】イザヤ11章2節は聖霊の賜物の筆頭に知恵を挙げますが、箴言8章12節は知恵の特徴として熟慮と慎重さを挙げます。落ち着きがなく思いつきで突っ走る人や、無反省な人、善悪の区別に無頓着な人は聖霊と無関係です。

ヨハネもパウロも伝統的なヘブライの世界観に従い人間に属する事柄を「肉」、神に属する事柄を「霊」と呼んだ。一コリント14章37節でパウロは、「自分には神の霊(聖霊)が働いている」と周囲に軽々しく吹聴する人々を、「自分を『霊の人』と思っている者」と呼んで、彼らへ厳しい自省を要請した。

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7657

(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを識別する」も参照のこと。
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主イエスはヨハネ10章30節「わたしと御父とは一つ」38節「わたしは御父の内にあり御父はわたしの内におられる」と教えられ14章でも繰り返され(10節、11節、21節)16章15節「御父の持っているものは全てわたしの持っているもの」で、御父と御自分との間に差異はないと仰せになった。

ヨハネ14章8節のフィリポの言葉「主よ、わたしたちに御父をお示しください」に対しコロサイ1章15節では「御子は、見えない神の姿」と表現した。「見えない神」とは御父であり「姿」とは《生き写し》というニュアンスをも含んでいる。ヘブライ1章3節は「神の本性の完全な具現」などと表現した。

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
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《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節で御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ヨハネ1章1節では御父は「神」、御子は「言(ことば)」であり、「言は神であった」と記されている。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主」は誰?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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