試論:ヨハネ3章18節を140文字以内で

【問】「御子(主イエス)を信じない者は既に裁かれている」の意味は?
【答】この場合の「裁く」とは、「裁断」つまり善悪や道理に照らして切り分けることで、御子は永遠の命(=天国の福楽)を与えるために来られたのに、その御子を信じない者は自分自身を天国の福楽から切り離している、の意味です。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

ヨハネ福音書は「永遠の命」「信じる」を多用する。ただし「何をすれば永遠の命を得られるか」の具体例はマタイ25章「最後の審判」とルカ10章「善きサマリア人の話」の箇所にあり、ルカ10章27節で主イエスは、「信じる」こととは「心・精神・力・思いを尽くし愛する」ことだとお教えになった。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:永遠の命を得るためには?を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ2章22節は、主が復活された際、過去の主の仰せを思い出した弟子たちは〔旧約〕聖書と主の仰せとを信じたと記す。この「信じた」は、「納得した」「了解した」「腑に落ちた」「合点がいった」等の意味合いである。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる者は、幸い」も同じことである。

古代よりヨハネ福音書には「信仰」を意味するギリシア語が登場しないことが知られていた。その替わりヨハネ福音書は「真理」を意味するギリシア語アレテイアを多用する。主イエスはピラトの問いに対し御自分のことを王だとも神だともお答えにならず、ただ「真理」すなわち信頼すべき者だと宣言された。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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詩編12(11)編においてダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(12編2節、新共同訳)と表す。ここで「信仰」と訳されるヘブライ語を、古代のギリシア語訳聖書はアレテイア(真理、まこと)と訳す。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ福音書は「信仰」を表現する際、他の福音書が用いるピスティスという語を用いず代わりにアレテイア(真理、まこと)という語を多用する。ヨハネにとって信仰とは、人の真心に対し真心で応じられる神なる主に向かって嘘偽りや裏表のない態度で接することに他ならず、これは当時の共通認識だった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
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