イザヤ28章16節には「シオンの隅の親石」の預言があるが、12節前後では、神の御言葉は人々に安息をもたらすものなのに、本来の意義を忘れて御言葉を伝える者たちが命令や規則として扱っていると告げる。マタイ11章28節で主イエスは、御自分の御言葉は人々に安息をもたらすと、仰せになった。
【追記】
マタイ11章28節で主は、「疲れた者はだれでもわたしのもとに来なさい」と仰せになったが、「人となられた神」(ヨハネ1章14節)が世に来られた目的とは、人間としての舌および、その仰せになる御言葉(ヨハネ1章1節)をもって、疲れた者を直接間接に、励ます(イザヤ50章4節)ためである。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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一ヨハネ5章3節は「神の掟は荷が重くない」と記し、主イエスはマタイ11章30節で「わたしの荷は軽い」と仰せになった。「わたしの荷」すなわち《キリストの律法》(マタイ7章12節:他人からしてもらいたいと思うことを全て他人にしなさい)は、モーセの律法に比べると驚くほど単純だが奥深い。
(注)別エントリー「試論:『愛の掟は荷が重くない』を140文字以内で」も参照のこと。
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A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。
B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。
C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。
D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。
「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。
(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
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【問】なぜ、「キリストの律法」(マタイ7章12節)を世に広く伝える必要がありますか?
【答】人間は自分自身の尊厳が傷付けられたと思い込んだ時、ならば今度は自分が相手の尊厳を傷付けても問題ないはずだという恐ろしい考えが心に生じて来ます。それを予防するためにキリストの律法は不可欠です。
(注)別エントリー「《キリストの律法》(マタイ7章12節)」も参照のこと。
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