試論:「動かざること山の如し」を140文字以内で

主はマタイ17章20節で御自分でなければ追い出せなかった悪霊と特にその抵抗の頑強さとを、「この山」と比喩で表現された。悪霊を追い出す話は「高い山」(同1節)から主と三人の弟子が残りの弟子たちの所へ戻った後の話(マルコ9章14節)で、「この山」と「高い山」とは、文脈上は別物である。

(注)別エントリー「試論:動かし難い物の比喩『山』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9551

【追記】

主はエルサレム入城後もマタイ17章20節「この山に向かって」と同様の言い回しを用いられている(21章21節、マルコ11章23節)。ただしダニエル9章16節の通り、古代のヘブライ人はエルサレム自体を、「上って」行く場所の比喩として「聖なる山」と呼んでいたことにも留意する必要がある。

ゼカリヤ4章7節は「大いなる山よ、お前は何者か。ゼルバベルの前では平らにされる」と記す。古代のヘブライ語の「山」には障碍・抵抗(抵抗勢力)・困難・難局等のニュアンスもあり、現代の日本でも(選挙結果を踏まえ)揺るぎないと思われた民意の大きな変化を「山が動いた」と表現することがある。

パウロは一コリント13章2節で、「たとえ山を動かすほどの信仰があろうとも」と表現したが、ゼカリヤ4章7節「大いなる山」の比喩を踏まえれば、この「山を動かす」とは、障碍・困難等を乗り越えていくことの比喩であり、また揺るぎないと思われていた民意を大きく動かしていくことの比喩でもある。

(注)別エントリー「試論:『この山』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9500