試論:「この山」を140文字以内で

主イエスはヨハネ12章23節以下で御自分の十字架の死により悪魔の罪と死の支配を終わらせる(ヘブライ2章14節以下参照)と宣言された。それはイザヤ25章8節の預言の成就だがイザヤのその節の前後は、成就の地エルサレムを「この山」と呼ぶ。ダニエル書9章16節「聖なる山」とも同じである。

(注)別エントリー「試論:動かし難い物の比喩『山』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:御受難と『永遠の命』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

主はマルコ11章23節で「誰でもこの山に向かって『立ち上がって海に飛び込め』と言い、〜」と仰せになったが、御受難の結果である永遠の命を預言したイザヤ25章7節以下では、御受難の地を「この山」と呼ぶ。既にイザヤ2章及びダニエル9章16節では、神殿の所在地でもある都を「山」と呼んだ。

ゼカリヤ4章7節の「大いなる山よ、お前は何者か。ゼルバベルの前では平らにされる」の預言にある通り古代のヘブライ人は頑強な抵抗や反対を「山」にたとえた。主のマタイ17章での悪霊を追い出せなかった弟子たちへの仰せ「からし種一粒の信仰があれば、この山に向かって」の「山」も、同じである。

主はマタイ17章20節で、御自分でなければ追い出すことができなかったほど頑強な悪霊の抵抗を、「この山」という比喩で表現された。悪霊を追い出す話は「高い山」(17章1節)から主と三人の弟子が他の弟子たちの所へ戻った後の話(マルコ9章14節)で、「この山」と「高い山」は直接関係ない。

鉄道の「上り下り」の表現の通り、地方から都に近づくことを「上る」都から地方へ遠ざかることを「下る」と表す。まして古代のイスエラルで「都」は、天の御父のお住まいとみなされた神殿の所在地であり、神殿や都は、上って行くべき場所の象徴としても「山」と表現された(イザヤ2章2節以下参照)。

イザヤ2章12節は、万軍の主の日においては全ての「誇る者」「傲慢な者」「高ぶる者」はことごとく低くされると預言して、14節は彼らを「高い山」「そびえ立つ峰」と表現する。主イエスも「自分を高くする者は神によって低くされ、自分を低くする者は神によって高くされる」と繰り返し教えられた。

(注)別エントリー「試論:『高慢と謙遜』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ3章5節はイザヤ40章4節を引用して、「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる」と記す。預言者イザヤが到来を預言した救い主イエスも「自分を高くする者は神によって低くされ自分を低くする者は神によって高くされる」と繰り返されて、イザヤ40章4節の意味するところを御説明された。

(注)別エントリー「試論:『高慢は破滅を準備する』を140文字以内で」も参照のこと。
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