ゼカリヤ4章7節の「大いなる山よ、お前は何者か。ゼルバベルの前では平らにされる」の預言にある通り古代のヘブライ人は頑強な抵抗や反対を「山」にたとえた。主のマタイ17章での悪霊を追い出せなかった弟子たちへの仰せ「からし種一粒の信仰があれば、この山に向かって」の「山」も、同じである。
【追記】
主はマタイ17章20節で、御自分でなければ追い出すことができなかったほど頑強な悪霊の抵抗を、「この山」という比喩で表現された。悪霊を追い出す話は「高い山」(17章1節)から主と三人の弟子が他の弟子たちの所へ戻った後の話(マルコ9章14節)で、「この山」と「高い山」は直接関係ない。
主はエルサレム入城後もマタイ17章20節「この山に向かって」と同様の言い回しを用いられている(21章21節、マルコ11章23節)。ただしダニエル9章16節の通り、古代のヘブライ人はエルサレム自体を、「上って」行く場所の比喩として「聖なる山」と呼んでいたことにも留意する必要がある。
鉄道の「上り下り」の表現の通り地方から都に近づくことを「上る」、都から地方へ遠ざかることを「下る」と表す。まして古代のイスエラルで「都」は、天の御父のお住まいとみなされた神殿の所在地であり、神殿や都は、上って行くべき場所の象徴としても「山」と表現された(イザヤ2章2節以下参照)。
ゼカリヤ4章7節は「大いなる山よ、お前は何者か。ゼルバベルの前では平らにされる」と記す。古代のヘブライ語の「山」には障碍・抵抗(抵抗勢力)・困難・難局等のニュアンスもあり、現代の日本でも(選挙結果を踏まえ)揺るぎないと思われた民意の大きな変化を「山が動いた」と表現することがある。
イザヤ2章において「山」という言葉は、まず2節では神殿の所在地である都エルサレムの栄光の象徴(ダニエル9章16節「聖なる山エルサレム」参照)である。しかし一度その都の人々の心が神から離れるならば、「山」(イザヤ2章14節)は「傲慢」(11節、12節)を象徴するものにも変化し得る。
(注)別エントリー「試論:『山』と『高慢』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9201
ルカ3章5節はイザヤ40章4節を引用して、「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる」と記す。預言者イザヤが到来を預言した救い主イエスも《自分を高くする者は神によって低くされ自分を低くする者は神によって高くされる》と繰り返されて、イザヤ40章4節の意味するところを御説明された。
パウロは一コリント13章2節で、「たとえ山を動かすほどの信仰があろうとも」と表現したが、ゼカリヤ4章7節「大いなる山」の比喩を踏まえれば、この「山を動かす」とは、障碍・困難等を乗り越えていくことの比喩であり、また揺るぎないと思われていた民意を大きく動かしていくことの比喩でもある。