試論:「憐れみ深い人」を140文字以内で

マタイ5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」はヨハネ13章「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」同14章「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、御父とわたしはその人のところに行って一緒に住む」等と同じ道理である。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

【追記】

ヨハネ14章2節〜3節「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたたちのために場所を用意して、あなたたちを迎える」二コリント5章1節「わたしたちは、神によって建物が備えられていることを知っています。人の手によるものではない、天に備えられている永遠の住みかです」。

「家と体はともに自身にとっての住まい」として両者を重ねる古代のヘブライ人の世界観を踏まえれば、主がヨハネ14章2節以下で仰せになった「あなたたちのために準備する住む場所」とは、「天から与えられる住みか」(二コリント5章1節)すなわち、「天上の体」(一コリント15章40節)を指す。

(注)別エントリー「試論:『霊の帰還』を140文字以内で」も参照のこと。
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《体も家も自身にとっての住みか》と考え両者を重ねる概念はヨブ4章19節に見られるヘブライの世界観で、ヨハネ2章19節の主の仰せ「三日で建て直す」や二コリント5章9節と関連する。ヘブライ人は人間それ自身をも「家」にたとえた(マタイ12章やルカ11章の「汚れた霊が家に戻って来る」)。

(注)別エントリー「試論:『さらに完全な幕屋』を140文字以内で」も参照のこと。
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