試論:「いやしとファリサイ派」を140文字以内で

マタイ9章32節以下のいやしのエピソード以降、ファリサイ派の人々は「彼は悪霊のかしらの力で悪霊を追い出している」と主イエスを中傷し続けた。主はマタイ12章32節で、聖霊によって悪霊を追い出した事実を「ベルゼブルによって追い出した」と咎めることは絶対に許容されない、と仰せになった。

【追記】

主はマルコ3章28節以下で、御自身の人間(人の子)的側面(ガリラヤ人、大工等)を云々する人々には酌量の余地がまだ残されるが、御自身の神としての権威(聖霊によって悪霊を追い出した事実)を目の当りにしながらそれになお難癖をつける人については、最早決して酌量の余地はないと警告なさった。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ12章32節で、御自分のことを単に人間的な事柄で嘲る人の悪口(同11章19節「大食漢で大酒呑み、徴税人や罪人の仲間」)は許容範囲内だが、神の霊つまり聖霊によって悪霊を追い出した事実を「ベルゼブルによって悪霊を追い出した」と咎めることは絶対に許容されないと、仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『人となられても神は神』を140文字以内で」も参照のこと。
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聖書で「神が人となる」とある場合、それは「神が人に変質(劣化)し、人である期間は神であることをやめている」を意味せず、「神は神のまま人間としての全てを担い、神でもあり人でもある存在となる」を意味する。「わたしはある」という神には、変質も劣化もない(詩編102編28(27)節等)。

(注)別エントリー「試論:『神が人となるためには』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスは神であり続けながら人間の肉体と魂を担い(ヨハネ1章14節)、割礼から神殿税まで人間の義務も全て担われた。両親に従う義務も当然担われた(ルカ2章51節、マタイ20章28節)。人へ模範を示されるため主は人となられたのだから、主が母親を軽視されたと考えることは意味をなさない。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを【再投稿】」も参照のこと。
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