主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。
(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
ルカ10章25節以下では、主イエスと一人の律法学者との対話を記し、「永遠の命」を受け継ぐために実行すべき事柄として「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」とあり、主は「正しい答え」と仰せになった。
(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ10章25節の律法学者と18章18節の議員は同じ質問をした。ただ議員には「心・精神・力・思いを尽くして」の観点が欠けていた。主は議員に、「持ち物を全て売り払う」という表現で勧告なさったが、この表現はマタイ13章44節〜45節のたとえでは《あらゆる努力を尽くす》を象徴している。
マルコ10章17節で主に金持ちの男が永遠の命を受け継ぐにはどうすればと尋ねた時、彼はそれが比較的容易な問題と考えていた。主はマタイ13章44節以下特に46節で、それを手に入れるためにはあらゆる努力を尽くす必要があると、「宝」「真珠」「持ち物を全て売り払う」等の表現で御説明された。
マタイ1章19節は、主の養父ヨセフをディカイオス(義人、正しい人)と呼ぶが、25章「最後の審判」の箇所では、ディカイオス(37節、46節)は「永遠の命にあずかる」(46節)人を意味している。つまり、「神の義」を身に着けることこそが、「永遠の命にあずかる」ことを約束するものである。
(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
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最後の晩餐の際に主は、御自分の《愛の掟》においては隣人愛の実践をもって御自分への愛の実践とみなすと宣言された(ヨハネ14章21節等)。最後の審判では各自の行いに応じて裁かれる(黙示録20章13節、マタイ25章45節)ため、神からの赦しを得るには隣人を赦す以外ない(同6章12節)。
マタイ7章21節で主イエス・キリストは、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな、天の国に入るのではない。天におられるわたしの父のみ旨を行う者だけが入る」と仰せになられ、23節やルカ13章27節では入れなくなる理由とは「不法を働く」「不義を行う」ことであると明言されている。
(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ25章45節で主は「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」と仰せになり、隣人愛の実行を神への愛の基準にすると宣言された。従って「私は周囲とはトラブルを起こしてばかりですが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。
(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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