人間の思いや計らいは心の奥底深く流れる水のようなもので、普段は周囲からは見えなくとも何かの拍子に溢れ出すように自分を抑え切れず口走ってしまい、図らずも、その人の内面が人々に知れ渡るが、知恵の源からとめどもなく溢れ出す神の御言葉は、絶えず豊かな命の水で満たされている大河を思わせる。
【追記】
マタイ13章「種を蒔く人」のたとえでは「根」が堅実や持続の象徴として登場するが、エレミヤ17章7節以下には「主に信頼する人は、水のほとりに植えられて根を張った葉が青々とした木」などと記され、同13節では「イスラエルの希望である主」を「生ける水の源」と呼ぶ(ヨハネ4章14節参照)。
(注)別エントリー「試論:『自分の十字架』って何?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7179
主はヨハネ4章で御自分を「生きた水」の源にたとえられたが、これはエレミヤ17章13節とも符合しており、同章では主に信頼する人を水に根を張った木にたとえる(7節以下)。ヨブ29章19節も、同様の比喩を主の御教えに根ざした信仰の堅固さや持続性を表す際に用い、マタイ13章にも対応する。
モーセの律法(レビ記14章など)では清めの儀式に用いる流水を「生きた水」と表現していた(新共同訳は「新鮮な水」)。勢いの良い流水は、澱んで濁った水と違い、清めの儀式に相応しい新鮮な清い水であるが、ヨハネ7章38節で主は、人間を清いものとする聖霊の賜物を「生きた水」にたとえられた。
(注)別エントリー「試論:聖霊の働きの徴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4984
ルカ11章41節「あなたたちはただ器の中にある物だけを施しなさい。そうすれば〜」ヨハネ7章38節「わたしを信じる者は、〔旧約〕聖書に書かれている通り(詩編116編13節「救いの杯」イザヤ12章3節「救いの泉から水を汲む」等)、その人の内から生きた水が川となって流れ出るであろう」。
古代のヘブライ人は良かれ悪しかれ定めを受け入れることを「杯」(ルカ11章39節)の比喩で表した(22章42節等)。主が11章41節で、「杯」の「内側」と「施し」すなわち憐れみの業を関連付けた比喩を用いられる時、古代のヘブライ人は詩編116編「救いの杯」(13節、5節)を連想した。
確かに御受難の前に主はルカ22章42節で、「杯」という比喩を苦しみの定めという意味で用いられたが、古代のヘブライ人にとって「杯」は必ずしも苦難だけを指すものではなく、幸福の定めを指していることさえあった。詩編116編13節「救いの杯」16編5節「主こそわたしが杯に受ける分け前」。
主はルカ11章で「外側」「内側」という表現を用いられたが、同じ事柄をパウロは二コリント4章16節で「外なる人」「内なる人」と表現し、ガラテヤ5章では「肉」「霊」と表現して両者の違いを詳しく記す。ガラテヤ5章22節「霊の結ぶ実」は、ルカ11章41節「器の中にある物」を説明している。
詩編31編でダビデは、さまざまな意味で衰えてきた自分の肉体を「壊れた器」(13節)と表現した。また二コリント4章7節でパウロは、人間の「外側」つまり「肉」の部分を、「土の器」と表現した。古代のヘブライ人の世界観では人間の肉体は土から取られて土に返る(創世記3章19節)定めである。
主はヨハネ4章14節で「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と仰せになった。箴言18章4節「人間は心の奥底にある思いをつい口に出して喋ってしまうが、知恵の源から湧き出る御言葉は命の水が溢れる大河のようだ」。
イザヤ11章9節は、「水」で満たすように「大地は主を知る知識で満たされる」と記す。しかし2節によれば「知恵」「識別」「主を知ること」等は全て「主の霊」すなわち聖霊の賜物である。つまり「水」は聖霊の賜物を象徴的(比喩的)に表現しており、12章3節は神なる主を「救いの泉」と表現する。
(注)別エントリー「試論:『聖霊の働きの識別』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10196