試論:マタイ5章6節を140文字以内で

主は山上の説教で「神の義に飢え渇く人は幸い。その人は満たされる」と仰せになった。その理由はヨハネ6章35節で説明される。「わたしは命のパンである。わたしの許に来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」同7章37節「渇く人は、わたしの許で飲みなさい」。

(注)別エントリー「試論:『わたしが与える水』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『パンと御言葉は不可分』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

主は「神の義に飢え渇く人は幸いである。その人は満たされる」と仰せになったが、ルカ10章では自分を「義化」(29節)しようとして踏み込んだ質問をした律法学者に対して、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛(27節)と永遠の命(25節)は全て事実上重なっていることをお教えになった。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
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(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:隣人愛と『心の中で憎む』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『根』と『水』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10855

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
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(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
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