ガラテヤ5章24節や同6章14節は、「神の国と神の義」(マタイ6章33節)に相応しくない現世的な「肉の業」(ガラテヤ5章19節以下)と絶縁する決意や日々のそのための努力を、負うべき十字架にたとえた。マタイ6章12節の「負い目」とは、「肉の業」つまり人間の「過ち」(14節)を指す。
(注)別エントリー「試論:『十字架が象徴するもの』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
主はマタイ10章38節で、御自分に従いつつも当人が抱える良心の問題と向き合わない者を批判された。それだと「御言葉を聞くと喜んで受け入れるが当人に根がないので、御言葉のために艱難や迫害が起こるとすぐつまずく者」(13章20節〜21節)だからである。信仰は一時の熱意や高揚感ではない。
(注)別エントリー「試論:ルカ11章40節『内側』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ6章12節で「われらが負債ある人を赦す如く、われらの負債を赦したまえ」と仰せになったが、同18章21節の「仲間を容赦しない家来のたとえ」で意味を詳しく御説明され、また35節は「あなたがた一人一人が心から兄弟を赦さないなら、天の御父もあなたがたに同じようになさる」と記す。
マタイ18章の「仲間を容赦しない家臣」のたとえで主は、「わたしがお前を憐れんだようにお前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか」の言葉通り他人を容赦することこそ憐れみそのものであると説明され、一人一人が心から兄弟を容赦しないのならば天の御父も一人一人に同じくなさると警告なさった。
主は、マタイ18章22節では「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」、マルコ11章25節では「だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」と仰せになり、信仰における「赦し」の重要性を強調された。
(注)別エントリー「試論:赦しは救いの鍵を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ6章14節から15節「あなたがたが人を容赦するなら天の父もあなたがたを容赦されるが、あなたがたが人を容赦しないなら天の父もあなたがたを容赦されない」は、「主の祈り」(6章12節)の補足説明であり、従って「主の祈り」を唱える者はその都度14節から15節に思いを致すべきである。
(注)別エントリー「試論:『主にとって赦しも癒し』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章12節以下は「言(ことば)」つまり主イエス・キリストによって「神の子」とされた人々は本来、「肉の欲」と無縁であるべきとする。ガラテヤ5章24節は「肉の欲」と絶縁するという決意と日々の努力を十字架という比喩で表現し、19節以下は信者が避けるべき「肉の業」に関して列挙する。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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たとえ過失を犯した人が将来を案じ利己的な動機に基づいて他人の負い目を容赦したとしても、人が他人の負い目を容赦する行為それ自体には神は賛同される(ルカ16章1節以下)が、人が他人の負い目に厳しく臨むならば、神も一度与えた容赦を撤回してその人に厳しくされる(マタイ18章21節以下)。
(注)別エントリー「試論:自分が裁かれないためにはを140文字以内で」も参照のこと。
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