試論:「一粒の麦」を140文字以内で

主イエスはヨハネ12章24節で有名な「一粒の麦もし死なずば」を仰せになり、御自分が信仰における「種」(マタイ13章等)として死んで行くと教えられたが、同時に「麦」という表現で、御自分とその御言葉とが人間が生きて行く上で食べ物と同じく必要不可欠であることを、再度人々に強調なさった。

(注)別エントリー「試論:『一粒の麦もし死なずば』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9425

(注)別エントリー「試論:『パンと御言葉は不可分』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10226

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『良い土地に蒔かれた種』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6659

(注)別エントリー「試論:種蒔きのたとえを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:マタイ5章6節を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

主が集まった群衆のためにパンを増やす奇跡を行われたことは有名だが、その少し前に弟子たちが極度の空腹のため安息日に麦畑で穂を摘み直に麦を口にし、ファリサイ派の人々と論争になった。なぜ主は奇跡で弟子たちの空腹を満たそうとはされなかったのか? 「現世利益」目的では奇跡を主は行われない。

(注)別エントリー「試論:『空腹をしのぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
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