試論:「どう聞くべきかに注意」を140文字以内で

主イエスはルカ8章18節で「どう聞くべきかに注意しなさい」と仰せになり、マルコ4章33節では「人々の聞く力に応じて多くのたとえで御言葉を語られた」。これらの場合「聞く」は「聞き分ける(心で理解する)」の意味である。マタイ13章15節では「聞く」と「心で理解する」とを併記している。

(注)別エントリー「試論:『持つ人は更に与えられ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11656

【追記】

マタイ13章で主はたとえで話す理由を御説明されたが、「目で見る」「耳で聞く」という表現も「御教え(御言葉)を悟る」「心で理解する」ことの比喩で、それは「悔い改め」に導く。忠実な弟子に主は特別な「耳」(理解力)を与えるとイザヤ50章4節は預言し、理解力と悔い改めとは表裏一体である。

(注)別エントリー「試論:聞くだけの人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5294

(注)別エントリー「試論:聞いても実行しない人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7347