主イエスは、マルコ12章とルカ21章の有名な「貧しいやもめの献金」の箇所で、「他のどんな裕福な人々よりも、彼女はたくさん献金した」と仰せになり、献金の多い少ないを信仰心の尺度と見なすという価値観をここで明確に否定された。献金で信仰心を評価する行為はキリスト教的ではない発想である。
(注)別エントリー「試論:二ペトロ2勝の『偽教師』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10808
【追記】
新約聖書に「十分の一」という献金は存在しない。大方の思い込みに反し旧約聖書にも存在せず、旧約聖書で「十分の一」はあくまで現物(物納)であり「献金」(貨幣)ではない。「聖書のみ」を標榜する教派が、聖書に根拠が皆無の献金を聖書に根拠があるかのように喧伝するのは、いかがなものだろうか?
マタイ17章は「魚と銀貨」の話で、主イエスの時代の「神殿税」が一人当たり銀半シェケル(出エジプト記30章15節)であり銀貨一枚で二人分だったことを記す。「十分の一」は「献げ物」(マタイ23章23節)であって、それは「土地から取れる収穫」(レビ記27章30節)などの「物納」による。
旧新約聖書には、貨幣で納める「神殿税」そして「神殿への献金」という制度はもちろん存在するし、またそれとは別に、現物(貨幣以外)で納める「十分の一の献げ物」という制度も存在する。ただし、貨幣で「十分の一」を「献金」させる制度は聖書には存在しない。「十分の一」は、聖書では物納である。