試論:「十分の一献金」の問題点を140文字以内で

申命記4章2節は「わたしが命じる言葉に何かを付け加えたり除いたりしてはならない。わたしが命じる通りに神なる主の戒めを守りなさい」と教え、神の掟の内容を人間の都合で変更する行為を認めない。従って「十分の一の献げ物」(現物、物納)」を「十分の一献金」(貨幣)へ変更することはできない。

【追記】

主イエスは、マルコ12章とルカ21章の有名な「貧しいやもめの献金」の箇所で、「他のどんな裕福な人々よりも、彼女はたくさん献金した」と仰せになり、献金の多い少ないを信仰心の尺度と見なすという価値観をここで明確に否定された。献金で信仰心を評価する行為はキリスト教的ではない発想である。

新約聖書に「十分の一」という献金は存在しない。大方の思い込みに反し旧約聖書にも存在せず、旧約聖書で「十分の一」はあくまで現物(物納)であり「献金」(貨幣)ではない。「聖書のみ」を標榜する教派が、聖書に根拠が皆無の献金を聖書に根拠があるかのように喧伝するのは、いかがなものだろうか?

マタイ17章は「魚と銀貨」の話で、主イエスの時代の「神殿税」が一人当たり銀半シェケル(出エジプト記30章15節)であり銀貨一枚で二人分だったことを記す。「十分の一」は「献げ物」(マタイ23章23節)であって、それは「土地から取れる収穫」(レビ記27章30節)などの「物納」による。

旧新約聖書には、貨幣で納める「神殿税」そして「神殿への献金」という制度はもちろん存在するし、またそれとは別に、現物(貨幣以外)で納める「十分の一の献げ物」という制度も存在する。ただし、貨幣で「十分の一」を「献金」させる制度は聖書には存在しない。「十分の一」は、聖書では物納である。

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかける。彼らは「滅びをもたらす異端を持ち込み、主を拒む」(1節)、「欲が深く虚言で人々を食い物にする」(3節)、「厚かましく、わがまま」(10節)「昼間から歓楽にふけるのを愉しみとする」(13節)「無意味な大言壮語」(18節)等の特徴を持つ。

(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:神の国の到来と『主の日』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:携挙がない理由を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『携挙』の否定を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:有人気球と『空中』の拡大を140文字以内で」も参照のこと。
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一ヨハネ4章2節とヨハネ1章14節を照合すると「惑わす霊」の特徴は、主イエスが公生活中に仰せになった「主の御言葉」の内容(掟や戒め)に頑として触れようとしない点で、キリスト不在のキリスト教と呼ぶべきものへと信仰を換骨奪胎し、信者を福音書の主の御言葉から遠ざけることこそ目的である。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)である神』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はルカ6章46節で「あなたたちはわたしのことを『主よ、主よ』と呼んでおきながらどうしてわたしの言うことを行わないのか」と仰せになった。さらに次節以下では「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞きながら聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている」とお教えになった。

「聖書のみ」を標榜する人々は「マリアは聖書では神の母と呼ばれたことがない」としばしば強弁するが、ルカ1章43節でエリサベトは「わたしの主のお母さま」と呼ぶ。他方「十分の一献金」は新約聖書にも旧約聖書にも登場しない。旧約で「十分の一」はあくまで現物(物納)であり献金(貨幣)でない。

(注)別エントリー「試論:『わたしの主のお母さま』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「マリアを『神の母』と呼ぶ聖書的根拠」も参照のこと。
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