アダムは命名者(創世記2章19節、3章20節)として妻エバを保護監督する責任があったが、良からぬことを追求するために責任を放棄し妻に従った。ヨセフは「神の御独り子の母」となった妻マリアの保護監督を神から委託され、ベツレヘムそして遠くエジプトまで旅し「幼子とその母」を守護し続けた。
(注)別エントリー「試論:エバの創造とマリアの誕生を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11412
【追記】
ヘブライ語の「知る」とは、「実感(体感)する」「実体験を通して、より詳しく感じ取る(思い知る)」の意味合いである。故に創世記4章1節「アダムは妻エバを知った」のように男女関係の婉曲表現でもあった。アダムとエバは禁断の木の実を食べて楽園を追われ、喜びと悲しみの違いを思い知らされた。
(注)別エントリー「『マリアの処女懐胎は誤訳に基づく話』説は本当か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1524
(注)別エントリー「『処女懐胎は誤訳に基づく話』説は本当か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1551
創世記で「善」「悪」と日本語訳されるヘブライ語は、「好ましいもの」「好ましくないもの」の総称である。アダムとエバは楽園を追われて初めて自分たちが神からの完全な保護を当然のように享受していたことを実感した。二人はその後さまざまな苦難や悲しみに遭遇したが、楽園には二度と戻れなかった。