試論:「火」と「精錬」を140文字以内で

旧約聖書は、神の御言葉(御教え)をしばしば「火」にたとえた。繰り返しの火による精錬が金属から不純物を取り除いていくように、神の清い御言葉(御教え)に繰り返し接することにより人間の心も清いものとなるからである。一ペトロ1章7節では、信仰上の試練をまさに火による精錬と関連付けている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:マタイ3章の二つの『火』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

ルカ12章49節「地上に火を投ずる」「その火が既に燃えていたら」の「火」とは、エレミヤ5章14節「わたしはわたしの言葉をあなたの口に授ける。それは火となり、この民を薪とし、それを焼き尽くす」にある通り、主の御言葉(御教え)を指す。同20章9節や同23章29節も同じ比喩を使用する。

(注)別エントリー「試論:『聖霊と火』の『火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5770

(注)別エントリー「試論:『わたしは地上に剣を〜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6064

(注)別エントリー「試論:『御言葉は剣(つるぎ)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6245

エレミヤ書では、20章9節で主の御言葉が「火」にたとえられ、5章14節や23章29節でも同様である。洗礼者ヨハネも同じ比喩で「聖霊と火による洗礼」(マタイ3章、ルカ3章)と表現し、御復活後の主イエスと数時間語り続けた二人の弟子たちは、ルカ24章32節で「心は燃えていた」と語った。

エレミヤ5章14節「わたしはわたしの言葉をあなたの口に授ける。それは火となり、この民を薪として焼き尽くす」同20章9節「主の名を口にすまいと思っても、主の御言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります」同23章29節「わたしの言葉は、火に似ていないか」。