古代のイスラエルでは「火」は「神の御言葉」の比喩(エレミヤ23章29節)である一方、特別に「永遠」と結びつく場合には、「火」は「神の御怒り」の象徴でもあった(詩編89編47節、マタイ25章41節)。ルカ3章で洗礼者は、16節では前者を、17節では後者(詩編1編6節参照)を語った。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『まずエリヤが来るはず』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『履物』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
エレミヤ23章25節以下では、偽預言者は真の神の御言葉を忘れさせるよう仕向ける点で非常に悪質と説き、28節は偽預言者を「もみ殻」に喩えた。詩編1編4節では「もみ殻」は神に逆らう者を意味し、6節は「神に逆らう者の道は滅びに至る」と記す。マタイ3章12節とルカ3章17節も同じである。
ルカ3章16節で洗礼者ヨハネは、来るべき方が「聖霊と火」で洗礼をお授けになる、と教えた。16節の「火」は、17節の「消えることのない火(=『永遠の罰』の象徴)」とは別の概念で、詩編105編19節や119編140節にある通り、火が金銀を精錬する如く人間を清くする主の清い仰せを指す。
ルカ3章には来るべき方が「聖霊と火」で洗礼をお授けになるとあるが、「火」とは「火が金属を精錬する如く人間を清くする主の清い仰せ」を指し詩編12編7節〜8節、66編10節、105編19節、119編140節、エレミヤ6章29節、ゼカリヤ13章9節、マラキ3章2節〜3節などが関連する。
旧約聖書は、神の御言葉(御教え)をしばしば「火」にたとえた。繰り返しの火による精錬が金属から不純物を取り除いていくように、神の清い御言葉(御教え)に繰り返し接することにより人間の心も清いものとなるからである。一ペトロ1章7節では、信仰上の試練をまさに火による精錬と関連付けている。
エレミヤ5章14節「わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。それは火となり、この民を薪として焼き尽くす」同20章9節「主の名を口にすまいと思っても、主の御言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります」同23章29節「わたしの言葉は、火に似ていないか」。
黙示録11章5節「二人に害を加えようとするものがあれば、彼らの口から火が出て、敵を滅ぼすであろう」は、エレミヤ5章14節「わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。それは火となり、この民を薪として焼き尽くす」を踏まえているが、エレミヤ5章はエルサレムの背信を咎める内容の章である。
主はマルコ9章49節で「すべての人は火で塩味を付けられねばならない」と仰せになったが、「火」はルカ3章16節と同じく、「火が金銀を精錬する如く人間を清くする主の仰せ」を指し、「塩味」は信仰を指す。主の仰せが人間を清くすることに関しては、ヨハネ15章3節で主御自身が御説明なさった。
(注)別エントリー「試論:『地の塩』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『御言葉は剣(つるぎ)』を140文字以内で」も参照のこと。
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