モーセの律法(レビ記14章など)では清めの儀式に用いる流水を「生きた水」と表現し(新共同訳は「新鮮な水」)、主イエスはヨハネ7章38節では人間を清い者とする聖霊の賜物を「生きた水」にたとえられ、同4章のサマリアの女との対話で御自分を「生きた水」(10節)を与える者だと表現された。
(注)別エントリー「試論:聖霊の働きの徴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4984
【追記】
エレミヤ17章13節以下は「イスラエルの希望である主」を「生ける水の源」と呼び、「主よ、あなたが癒してくださるならわたしは癒され、あなたが救ってくださるならわたしは救われます」と続く。イザヤ6章10節(マタイ13章15節、ヨハネ12章40節)では主による赦しは癒しと同一視される。
モーセの律法(レビ記14章など)では清めの儀式に用いる流水を「生きた水」と表現していた(新共同訳は「新鮮な水」)。勢いの良い流水は、澱んで濁った水と違い、清めの儀式に相応しい新鮮な清い水であるが、ヨハネ7章38節で主は、人間を清いものとする聖霊の賜物を「生きた水」にたとえられた。