主イエスはマルコ4章で弟子たちが大荒れの湖の船内で右往左往する中、ただ一人のんびり眠っておられた。これはヨナ1章の預言者の姿を連想させ、実際に主御自身がマタイ12章40節前後で御自身とヨナを重ね合わせられ、御自分もまたヨナのように人々を救うための犠牲となる定めだとほのめかされた。
(注)別エントリー「試論:『突風を静める』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10468
【追記】
主イエスは、御自身の死と復活が、既に〔旧約〕聖書に預言されている、と仰せになる際に、
「ヨナのしるし」
という表現を用いられた。
ヨナ2章1節(1章17節)「ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた」。
ここで注意すべきは、
「海」(1章15節)
が死の世界の象徴として言及されているという点である。
(注)別エントリー「試論:『地上では海が荒れ狂う』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12775
ルカ24章のエマオでの御出現において主は、旧約聖書とは御自分について証しするものであり、実際その詳細について「全体」の説明を始めると、何時間あっても語り尽くせないことをお示しになった(27節)。主はユダヤの人々に対して以前にも同じ事柄をお話しになられていた(ヨハネ5章39節等)。
主イエスはヨハネ5章39節で「あなた方は〔旧約〕聖書中に永遠の命が存在すると考え〔旧約〕聖書を研究するが、〔旧約〕聖書はわたしに関してあかししている」と仰せになり、御自分とは無関係の目的で〔旧約〕聖書を研究しても、本当に重要な真理には全く到達することができないと、お教えになった。
(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332