主イエスはルカ21章25節で都の滅亡(紀元七〇年)の前後に「地上では海が荒れ狂う」と仰せになった。古代のヘブライの世界観で「海」とは、あらゆる罪・咎の集積する空間(ミカ7章19節)である。「地上」の「地」とは「イスラエルの地」(エゼキエル7章2節)で、ユダヤの無法状態を暗示する。
(注)別エントリー「試論:『天体を揺り動かす』??を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
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【追記】
主はマタイ24章10節と12節で、人心の荒廃が神殿の滅亡に先立つことを予告された。一方で一世紀ユダヤの歴史家ヨセフスは、紀元七〇年のエルサレム滅亡以前に暗殺や強盗殺人がユダヤの各地で頻発し、加害者が相手をローマの手先呼ばわりして自分たちの悪事を正当化していた事実を著作に記述した。
(注)別エントリー「『荒廃をもたらす憎むべきもの』とは何か」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ガリラヤのユダを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:古代ユダヤの社会不安を140文字以内で」も参照のこと。
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申命記22章5節は男性の女装を禁じた。この掟を古代ユダヤの歴史家ヨセフスは、社会秩序崩壊を防ぐ掟とみなした。主の御受難から三十数年後、独裁者(ギスカラのヨハネ)の下でエルサレムを恐怖支配していた武装勢力の集団は、白昼堂々女装しながら、市民に対し虐殺や略奪や婦女暴行等を繰り拡げた。
十字架を背負わされた主が連行される際、主を見守ったエルサレムの女性たちに対し、ルカ23章27節以下で主は21章23節とは裏返しの表現で、やがて幼い子供と女性が苛酷な目に遭う時代が来ると予告され、「世も末」というべき時代の「しるし」は<幼い子供や女性の尊厳の蹂躙>とお示しになった。
プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)はルカ21章23節を「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」と訳し、ある人々がいわゆる「大艱難時代」と呼ぶ時期とは実は紀元七〇年の滅亡の前後に他ならないと示唆する。
(注)別エントリー「試論:携挙がない理由を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
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主はルカ21章23節でエルサレム滅亡とその前後のユダヤの苦難を予告されたが、『改訳 新約聖書』(1917年)では「大なる艱難」と日本語訳する。一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスの記述通り、紀元六六年の大反乱の勃発から七三年のマサダ陥落までの七年間に、ユダヤは惨劇の連続を経験した。
(注)別エントリー「試論:『イエスとヨセフス』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「ダニエル書9章の『七十週』預言」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:神の国の到来と『主の日』を140文字以内で」も参照のこと。
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紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子とともに奴隷とされて売り飛ばされた。こうして、「一人は連れて行かれ、一人は残される」は現実となった。
(注)別エントリー「試論:ルカ19章41節を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。
(注)別エントリー「試論:有人気球と『空中』の拡大を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『携挙』の否定を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『十分の一献金』なる虚構を140文字以内で」も参照のこと。
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