主はマルコ9章49節で「すべての人は火で塩味を付けられねばならない」と仰せになったが、「火」はマタイ3章11節と同じく「火が金銀を精錬する如く人間を清くする主の仰せ」を指し、「塩味」は信仰を指す。主の仰せが人間を清くすることに関しては、ヨハネ15章3節で主御自身が御説明なさった。
(注)別エントリー「試論:マタイ3章の二つの『火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5795
(注)別エントリー「試論:口から火が迸り出る預言者を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5525
【追記】
主はマタイ5章13節で「塩に塩気がなくなれば」と仰せになり、信者を「塩」、信仰を「塩気」にたとえられたが、ヨハネ15章では同じ事柄を「ぶどうの木」にたとえられて、「わたしにつながっていなさい」(4節)「わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっている」(10節)とお教えになった。
(注)別エントリー「試論:ぶどうの木と『実』の特徴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9958
マタイ5章13節で主は信者たちを「地の塩」とお呼びになり信仰を「塩気」にたとえられたが、理由は当然マタイ28章19節以下にある通りに全世界が信者たちによって「塩気」で味付けされねばならぬからである。マルコ9章50節では「塩」と《調和》を関連付け、ヨハネ13章35節を既に予告する。
(注)別エントリー「試論:『世の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5388