御父である神の御独り子である主イエスをヨハネ1章1節は「言」つまり「神の御言葉」と呼ぶ。一コリント10章3節以下はキリストを「霊的な岩」と呼び「霊的な食べ物」「霊的な飲み物」を与えたと記す。ヨハネ3章とガラテヤ5章は神に由来する物事を「霊」、人間由来の物事を「肉」と呼び対比する。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
「言(ことば)」とは、《御自ら人々の前に現れて直に御言葉を語られる御子(おんこ)である神なる主イエス・キリスト》を指し、この節の意味は「万物創造の前から御子である主イエスは存在され、御子イエスは御父である神と共にいついかなる時もおられ、御子イエスも御父同様に完全な神であられた」。
(注)別エントリー「試論:マルコ4章『種を蒔く人』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ7章24節で御自分の御言葉を聞いて実行する人を「岩の上に家を建てた賢い人」と称され、御自身について21章42節で「家を建てる者の隅の親石」と表現された。箴言1章33節は知恵の言葉として「わたしに聞き従う人は確かな住まいを得る」2章6節は「知恵を授けられるのは主」と記す。
(注)別エントリー「試論:『土台なしで家を建てる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:イザヤ28章『隅の親石』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
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古代のヘブライ人の世界観に従ってガラテヤ5章は「人間(人間それ自体)」を「肉」、「神〔に由来するもの〕」を「霊」と呼ぶ。ヨハネ3章6節も同様の対比を用い「霊から生まれた者は霊」の意味を1章12節は、「神の御言葉である主イエスは自分を受け入れる人に神の子となる資格を与えた」と記す。
ガラテヤ5章は「肉」と「霊」の対立を記すが、ヨハネ1章同様、パウロは古代のヘブライの世界観に基づき、人間そのものを「肉」と表現して「霊」つまり「神の霊」と対比する。近代人は「肉と霊」という表現から「〔人間の〕肉体と〔人間の〕霊魂の対立」をイメージしがちだが、パウロの意図は異なる。
ガラテヤ5章16節以下では「肉と霊」が対比されるが、ここで「肉」はヨハネ1章14節同様「人間」を指し、「霊」は「聖霊」「神の霊」を意味する。つまりこの章における「肉」と「霊」との対立とは、「人間に由来する諸悪」(マルコ7章20節以下参照)と「神に由来する諸徳」との対立を意味する。
古代のイスラエル人にとって「肉」という表現は「人間」を指す場合があった(ヨハネ1章14節等)。マルコ7章20節以下で主イエスが「人から出て来るものこそ人を汚す」と注意を促された諸悪と、ガラテヤ5章19節以下でパウロが「肉の業」と呼んで避けるように促した諸悪が同様なのは当然である。
(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
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ヨハネ6章63節は、人間に由来する事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼ぶ。ガラテヤ5章16節以下は、同じく「肉」「霊」という表現を用いて両者を対比し、詳細かつ具体的に説明を加え、19節〜21節は避けるべき事柄を「肉の業」と呼び、22節〜23節は「霊の結ぶ実」について勧める。