試論:「洗礼者と彼の弟子たち」を140文字以内で

【問】マタイ11章で洗礼者が自分の弟子たちを主イエスの許に送った意図とは?【答】洗礼者は己の使命を「花婿」と「花嫁」を引き合わせることと心得ていましたが、彼の弟子の一部はイエスの活動をライバル視していたため、彼は弟子たちに「しるしを行う方こそ従うべきメシア」と教えようとしました。

【追記】

イザヤ62章5節は「神と神の民」の関係を「花婿と花嫁」の関係にたとえたが、ヨハネ3章29節で洗礼者が「花婿の介添人」を自称する場合、「花婿」が主イエス・キリストであるのは、いうまでもない。洗礼者は、「花婿」と「花嫁」を引き合わせるまでが自分の役割と心得て、30節の言葉を口にした。

イザヤ62章5節はシオンの救いに関する文脈で神と神の民との関係を花婿と花嫁の関係にたとえエレミヤ33章11節はエルサレムの復興を「花婿と花嫁の声が聞こえるようになる」と預言したが、ならば、黙示録18章23節が「花婿と花嫁の声は聞かれない」と啓示した都も、やはり同じ都のはずである。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
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主イエスは使徒をお選びになる際に、既存の教派に属したことのない者か、属したことがあってもその流儀や特色に固執せず頭を切り替えた者を選んだ。例えば、初めこそ洗礼者の弟子だったが、洗礼者の言葉に従って主の弟子となり主に従うことこそが洗礼者にも忠実であることと割り切ったアンデレである。

(注)別エントリー「試論:『履物のひもを解く』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはマタイ11章14節で、洗礼者ヨハネが預言者マラキのいうエリヤだと教えられたが、ヨハネ1章21節で洗礼者は一度それを否定した。当時の人々は最初にしるしで判断しようとした(マタイ12章38節)が、洗礼者にはエリヤと同じしるしを行う意図はない(ヨハネ10章41節)からである。

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
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洗礼者は何のしるしも行わなかった(ヨハネ10章41節)が、主は彼がエリヤだと仰せになった(マタイ11章14節)。洗礼者自身はエリヤであることを否定した(ヨハネ1章21節)が、人々から「天からのしるし」(列王上18章38節、マタイ16章)を求める声が起こらないようにするためだった。

(注)別エントリー「試論:もう一人の『エリヤ』??を140文字以内で」も参照のこと。
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マルコ8章11節でファリサイ派の人々は主イエスを試そうと「天からのしるし」を求めたのに対し、主は「なぜ『時代のしるし』を悟ることができないのか」とマタイ16章3節で答えられた。「時代のしるし」とは、預言されていた救い主による癒し(イザヤ35章5節以下)と、主によるその実践である。

主イエスはパンを増やし四千人の群衆に食べ物を与えるという奇跡を行われた。類似の奇跡は列王下4章42節以下で「神の人」預言者エリシャも行っていた。主イエスの神の御独り子たる本領は「生まれつき目が見えなかった人の視力を回復させた」(ヨハネ9章32節、イザヤ35章5節)時に発揮された。

(注)別エントリー「試論:『救い主の識別』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ2章11節は「あなたたちのために救い主がお生まれになった」マタイ1章21節は「この子は自分の民を罪から救う」と記す。イザヤ35節4節以下は「敵(サタン)を撃ち悪を罰する神が来られ、あなたたちを救われる」と預言し、目や耳や足や言葉の不自由な人々の回復が神の到来の徴になると続く。

四福音書は主イエス・キリストによる病人の奇跡的な癒しをさまざまに記すが、理由はイザヤ35章4節以下で救い主の到来が預言されている通り、見分ける徴は目や耳や手足や言葉の不自由な人の奇跡的な治癒(6節。またヨハネ9章32節参照)であることが、既に数百年前から預言されていたからである。

主イエスはヨハネ5章39節で「あなた方は〔旧約〕聖書中に永遠の命が存在すると考え〔旧約〕聖書を研究するが、〔旧約〕聖書はわたしに関してあかししている」と仰せになり、御自分とは無関係の目的で〔旧約〕聖書を研究しても、本当に重要な真理には全く到達することができないと、お教えになった。

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖書研究の目的を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8447