試論:新しい掟と主イエスの模範を140文字以内で

ヨハネ13章34節「わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい」の「わたしがあなたたちを愛したように」は、同章15節「模範を示した」を踏まえる。他人から尊重されたり敬意を払われたりした経験がない人には、他人に対する尊重と敬意がなぜ必要か理由を理解できない。

【追記】

主イエスは「自分が他人にしてもらいたいことを自分から他人にしなさい」と《キリストの律法》を教えられたが、ヨハネ13章1節では《御自分の時》が来たと自覚された主が、弟子たちを尊重され、どこまでも尊重されたことが記される。《キリストの律法》とは尊重と敬意であると、主は御自ら示された。

主イエスは「自分が隣人からしてもらいたいことを自分から隣人にしなさい」を御自分の《律法》すなわち御教えの根幹とされ、弟子たちの足を洗われ隣人への敬意と尊重の重要性を教えられた。しかし御自身は次の晩が来る前に、尊重や敬意とは無縁の暴力や虐待や侮辱の裡にぼろ布のようにされて殺された。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

弟子たちの足を洗うという行為を通じて、主イエスは隣人に敬意を払って尊重することこそ御自分の御教えの根幹であると教えられた。自分自身が他人から尊重され敬意を払われた経験がなければ敬意と尊重は理解できない。「互いを尊重するなら、それを見て皆はあなたたちがわたしの弟子であると認める」。