試論:「土の家」(+復活の体)を140文字以内で

創世記の2章と3章では、人間は「土(塵)」に由来し「土(塵)」に還る存在とする。創世記の記述に基づきヨブ記4章19節は「人は塵の中に基を置く土の家に住む者」と記す。ここでは人間の体を「土の家」と表現し、古代のヘブライ人が「(人間の)体」と「家」とを重ねて考えていたことを示唆する。

(注)別エントリー「試論:『土』と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

上述の通り「『体』と『家』はともに自身にとっての住まい」という古代のヘブライ人の世界観を踏まえ主イエスは、「人となられた神の子である御自身の体」を「神の家=神殿」に重ねて「三日で建て直して見せる」と仰せになった。だがイエスを冒瀆者として葬り去ろうとした当時の人々には通じなかった。

「家と体はともに自身にとっての住まい」として両者を重ねる古代のヘブライ人の世界観を踏まえれば、主がヨハネ14章2節以下で仰せになった「あなたたちのために準備する住む場所」とは、「天から与えられる住みか」(二コリント5章1節)すなわち、「天上の体」(一コリント15章40節)を指す。

(注)別エントリー「試論:『霊の帰還』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ14章2節〜3節「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたたちのために場所を用意して、あなたたちを迎える」二コリント5章1節「わたしたちは、神によって建物が備えられていることを知っています。人の手によるものではない、天に備えられている永遠の住みかです」。

一コリント15章でパウロは「地上の体」「天上の体」という表現を用いて、《人間が地上で生活していた際の、死によって朽ちていく肉体》と《その人の霊が神の許に帰還した後で、神によって天上で新しく与えられる、朽ちることのない体》について説明し、後者を「霊の体」(44節)等と表現している。

主はヨハネ11章25節で御自身を復活と命だと称され、6章63節では命を与えるのは「〔神の〕霊」だと仰せになった。コヘレト12章7節は人間の死でその肉体は塵(土)に還るが、命を与えられたその霊は「与え主」である神の許へと還るとし、一コリント15章44節は「霊の体が復活する」と記す。

主イエスは「わたしは世の光」(ヨハネ8章12節)と仰せになられ、1章4節は「御言葉(人々に語り掛ける神=御子イエス・キリスト)の内に命があり、命は人間を照らす光」と記し、5節では主を「光」と表現する。3章19節で主は「光」と自称され、10章25節では「復活」「命」とも自称された。

(注)別エントリー「試論:『世の光』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神よあなたのことばは』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
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