エレミヤ12章8節以下は、主なる神に「わたしの嗣業」と呼ばれる人々が「わたしに対して森の中の獅子となり、わたしに向かってうなり声を上げる」と記す。10章16節は「万物の創造者であり御名を万軍の主という方の、嗣業である民はイスラエル」と記すので、御自分の民が牙を剥く日の預言である。
【追記】
主はヨハネ12章27節で「今わたしは心騒ぐ」と仰せになり御自分の内面は穏やかでないと告白された。多くの侮辱を伴う凄惨なリンチの末に、十字架を背負わされ、「御自分の民」から罵声を浴びながら体力を消耗し尽くし、ぼろ布のような状態で大きな苦しみの内に息絶える日がそこまで来たからである。
(注)別エントリー「試論:『主の僕(しもべ)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8849
(注)別エントリー「試論:『主の僕の忍耐』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6462
古代のギリシア語イザヤ50章6節は「わたしは鞭打つ者に背中を、平手打ちする者に頬を向け、なお嘲りと唾からも顔をそむけることがなかった」と表現し、この節を、マタイ5章39章の主の御言葉そして御受難の際(同26章〜27章)の主の御苦しみと御振舞いに、最も近いニュアンスで解釈している。
(注)別エントリー「試論:御受難の際の主の模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6315
(注)別エントリー「試論:『神の小羊』=『主の僕』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8876
主イエスはヨハネ5章39節で「あなた方は〔旧約〕聖書中に永遠の命が存在すると考え〔旧約〕聖書を研究するが〔旧約〕聖書はわたしに関してあかししている」と仰せになり、御自分と無関係の目的で〔旧約〕聖書を研究したとしても本当に重要な真理には全く到達することができないと、お教えになった。
(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706
(注)別エントリー「試論:聖書研究の目的を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8447