ヨハネ1章18節は「ふところにいる」という位置関係で御父である神と御独り子であるイエス・キリストとの親密な関係を表現する。13章25節で主に「(裏切ろうとしている一人、)それは誰ですか」と質問した弟子はまさに同じ位置関係で、この弟子が主から特に目を掛けられた存在であると示唆する。
【追記】
ヨハネ1章18節は、御父である神を見た者はいない(出エジプト記33章20節参照)と記し、御子である神つまり主イエス・キリストがこの世に到来され、神とは何であるかについてお示しになったと記す。そのことをヨハネ14章7節で主御自身がフィリポに御説明されている(ヘブライ1章3節参照)。
ヨハネ14章8節のフィリポの言葉「主よ、わたしたちに御父をお示しください」に対しコロサイ1章15節では「御子は、見えない神の姿」と表現した。「見えない神」とは御父であり「姿」とは《生き写し》というニュアンスをも含んでいる。ヘブライ1章3節は「神の本性の完全な具現」などと表現した。
出エジプト記24章にモーセ一行が「神を見た」とあるが、実際に御姿を見たわけでなく、足台を見たことによって上におられる神を「見た」のである。「心の清い人は幸いである。その人は神を見る」の「見る」も認識するという意味を含むが御降誕の夜、羊飼いたちはマリアやヨセフと実際に、御姿を見た。
(注)別エントリー「試論:ヘブライ人の『神を見る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5673
(注)別エントリー「試論:福音書と『西遊記』の違いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5760
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844
(注)別エントリー「試論:ルカ2章7節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5924