主イエス・キリストはモーセの律法の中の「最も重要な掟」の第一と第二とを統合され、「新しい掟」(ヨハネ13章34節)「わたしの掟」(14章15節)とされた。この掟は、隣人愛の実践をもって神への愛の実践と見なす(同節)。従って神なる主への信仰を証明するものは、隣人への愛の実行となる。
(注)別エントリー「試論:『神への愛』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
マルコ12章では、主イエス・キリストと一人の律法学者との対話で、申命記6章の「唯一の主」の掟とともに、レビ記19章18節の「隣人愛」の掟が二回(マルコ12章31節、33節)言及されている。マタイ7章12節でも主は「これこそ律法と預言者」と仰せになり、最も重要な掟であると示された。
ローマ3章でパウロは、「信仰」「律法」という表現で実際には<イエス・キリストを信仰する人々にとっての新しい掟である愛の掟>と<イエスを認めぬ人々が律法とするモーセが与えた掟>とを比較した。人間を「義」とするのは、<律法の掟>の実行ではなく、信仰に基づく<愛の掟>の実行如何による。
(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
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最後の晩餐の際に主は、御自分の<愛の掟>においては隣人愛の実践をもって御自分への愛の実践とみなすと宣言された(ヨハネ14章21節等)。最後の審判では各自の行いに応じて裁かれる(黙示録20章13節、マタイ25章45節)ため、神からの赦しを得るには隣人を赦す以外ない(同6章12節)。
マルコ12章の律法学者との対話において、主はレビ記19章18節の隣人愛の掟を、「最も重要な掟」の第二とされた。最後の晩餐の際(ヨハネ13章以下)、主イエスは隣人愛の掟を「新しい掟」「わたしの掟」としてあらためて授けられ、愛の掟を守ることこそが御自分の弟子である証しだと教えられた。
主イエス・キリストはマルコ12章における「最も重要な掟」の第一と第二とを統合され、ヨハネ13章34節で「新しい掟」そして「わたしの掟」(同14章15節)とされた。この掟は隣人愛の実践をもって、神への愛の実践とする(同節)。隣人愛の実行こそがキリストへの信仰をあかしするものとなる。
(注)別エントリー「試論:『新しい契約』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ13章34節以下で主は「新しい掟」について宣言されたが、これこそエレミヤ31章31節の「新しい契約」で、同33節「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」に関して主はヨハネ14章とりわけ21節で説明され、愛の掟を守ることが神の民となるための条件である旨を宣言された。
(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
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