マタイ24章30節は「人の子は天の雲に乗って」と訳されるが、ギリシア語本文には日本語の「乗る」に当たる動詞はない。全能の神なる主は移動の際に乗物は不要で「雲」は神の現存を象徴するに過ぎないが、『西遊記』が有名な日本では孫悟空の雲と変わらぬかの如き誤解を招いている可能性が大である。
(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/684
(注)別エントリー「試論:ヘブライ人の『神を見る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5673
(注)別エントリー「試論:『一人は連れて行かれる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5599
(注)別エントリー「試論:連れて行かれるのはどこ?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6151
(注)別エントリー「試論:『一人は連れて行かれ〜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5819
【追記】
出エジプト記24章にモーセの一行が「神を見た」とあるが神の御姿を実際に見たのでなく、足台(「サファイアの敷石のようなもの」)を見たことによって上におられる神を認識したのである。古代のヘブライ人の理解では、「神を見る」とは、神の御姿をじかに目の当たりにすることを意味していなかった。
(注)別エントリー「試論:『心の清い人は神を見る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5937