ダニエル7章は、天において《御父である神》が《御子である神》に全権を委任する光景(13節〜14節)を啓示する。このことを主イエスは四福音書の随所で繰り返し強調され(マタイ11章27節、同28章18節、ルカ10章22節、ヨハネ3章35節、同13章3節等)、「真理」とお呼びになった。
(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
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(注)別エントリー「ダニエル書7章:地上に興る第四の王国」も参照のこと。
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【追記】
エゼキエルやダニエルが「人の子よ」と呼びかけられる時「人の子」は「人間(人類の一員)」という一般的な意味である。「人となられた神」が自称される時だけ「人の子」は神の称号としての意味を持つ。マタイ12章では「人の子」は主の人間としての側面を指し、「聖霊《神の霊》」の比較対象である。
ヨハネ1章14章は「言(ことば)は肉となって」と記し《人々と直にお話しになる、御子である神》主イエス・キリストが人間となられたことを記すが、10章30節では「わたしと父は一つ」と主は仰せになり、たとえ自分は人間(「人の子」)となっても同時に神は神のままであり続けることも示された。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ12章32節で、御自分の人間としての側面(ガリラヤ人、大工など)に関して同時代の人々からとやかく言われてもそれは看過すると仰せになったが、神としての側面に関して難癖をつける(悪霊を追い出した神の霊つまり聖霊を、ベルゼブル呼ばわりするなど)なら看過されないと仰せになった。
(注)別エントリー「試論:『聖霊に対する冒涜』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを【再投稿】」も参照のこと。
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ヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心も思いも一つ」「持ち物を自分だけのものと主張せず共有している」と説明する。従って、御父の持ち物は御子の持ち物でもあり逆もまた然りである。ヨハネ10章38節「わたしは父の内にあり、父はわたしの内におられる」。
「真理(ギリシア語本文でアレテイア)とは何か」(ヨハネ18章38節)の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」ことがアレテイアとし、主はこれを「適切な答え」とされた(34節)。ヨハネ14章6節「わたしこそが道、真理、命」10章30節「わたしと父とは唯一のものである」。
ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。
一ヨハネ5章は20節で「神の御子が来られ、私たちに真理である方を知る力を与えられました。私たちは真理である方の内に、またその御子イエス・キリストの内にいるのです」と記し、「この方こそ真理である神、永遠の命」と続け、御父と御子と聖霊(6節)の御三方を「真理」と呼び、唯一の神とする。
主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。
(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
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ヨハネ8章34節「罪を犯す者は、罪の奴隷」12章31節「今、この世の支配者が追放される」ヘブライ2章14節〜15節「御自分に委ねられた者たちが人間である以上イエスも同じく人間としての全てを担われたが、死を司る悪魔を御自分の死によって滅ぼし悪魔の罪と死の支配から人々を解放された」。
(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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主はヨハネ12章24節で「一粒の麦もし死なずば」の一節の前に、ギリシア語本文では二度「アーメン」と口にされた。通常この箇所は「まことにまことに」「よくよく」「はっきり」等と訳されるが、主はこうなさることで、そこが御教えの核心部分だと示された(31節及びコロサイ1章20節等参照)。
ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。
イスラエルの神である主は御自分の民に対して御自ら御言葉を発せられて御教えをお話しになり(申命記5章22節以下)、それこそが自分で言葉を話せない偶像の神と最も異なるとして、主をエレミヤ10章10節は「真理の神」と呼ぶ。主イエスはピラトに御自分が何者か「真理」の表現で端的に示された。