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試論:「神が人となる」を140文字以内で

聖書で「神が人となる」とある場合、それは「神が人に変質(劣化)し、人である期間は神であることをやめている」を意味せず、「神は神のまま人間としての全てを担い、神でもあり人でもある存在となる」を意味する。「わたしはある」という神には、変質も劣化もない(詩編102編28(27)節等)。

(注)別エントリー「試論:『神が人となるためには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7830

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

【追記】

主イエスは神であり続けながら人間の肉体と魂を担い(ヨハネ1章14節)、割礼から神殿税まで人間の義務も全て担われた。両親に従う義務も当然担われた(ルカ2章51節、マタイ20章28節)。人へ模範を示されるため主は人となられたのだから、主が母親を軽視されたと考えることは意味をなさない。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948